港区社長シュナイダーが人間・社会・教育について論じているブログ

管理人略歴 会社経営者/法学士(京都大学)/港区タワマン在住/英検1級/元Z会マスターコース講師

仕事のやりがいと家族や友達

このブログでも何度か述べていますが、私は「仕事のやりがい」というものに対して非常に懐疑的です。

(もちろんこれは究極的には価値観ですから、「仕事がやりがい」という方をとにかく認めない、とかそこまで極論を言ってるわけではないので)

 

私がつくづく思うことですが、人間が他者に対して「比類なき価値」を感じるのは、「代替不可能性」をその対象に見出した時です。

 

地球上には70億人の人間がいると言われていますが、「同じ人間」は一人としていません。

 

双子ですらやはり「違う人間」です。

 

しかも、「あなたと同じ人間」はこれまでもこれからも地球上には存在しません。

 

家族や友達というレベルで考えたときに、やはり人は代替不可能性をお互いに感じます。(家族よりは友達の方がある程度代替可能性があるような気がしますが)

 

しかし、私が仕事に限界を感じるのは、

仕事はあらゆることが「有用性」により測られている

からです。

 

要は、芸術作品でもない限り、「誰がそのサービスを提供しているか」というのはどうでも良い話なのです。

 

ただ単に有用なサービスを提供しさえすれば、その提供者がAさんであってもBさんであってもどうでもいいわけです。

 

地球上で、「その人しかできない仕事」などは、孫正義ザッカーバーグとか大谷翔平選手とかそのレベルでしか存在しません。

 

世の中のほとんどの仕事は代替可能なものです。

 

会社経営者や医者・弁護士などがいくらステータスがあると言っても、「その人しかできない仕事」なんてほぼ存在しません。(山中信弥博士くらいの医学者でもない限り)

 

コンビニの店員よりは医者の方が、「相対的に代替不可能性が高い」だけで、あくまでも「代わりはいる」わけです。

 

わりと立派な仕事をしているホワイトカラーの方には「俺は俺しかできない仕事をやっている」と思い上がっている人もいるかもしれませんが、マクロに見て「俺しかできない仕事」なんて世の中にほとんどありません。

 

どれだけ仕事に価値を主観的に感じたところで、「あなたの代わりはどこにでもいる」のが実情です。

 

私が仕事よりも家族や趣味に幸せを見出した方が幸福になれると考えているのはこの辺にあります。

 

人間は自分を肯定したい生き物ですから、自分がすごい仕事をやっていると思いたいものです。

 

しかし、仕事の意味について本当に深く考えてみたり、他にその仕事ができる人がいないかなどを考えると、やはり仕事には「生き甲斐」として限界があります。(当たり前ですが、もちろん生活のために仕事をしないといけませんが、それと仕事がやりがいかどうかというのは別の話です)

 

それに対して、やはり家族というのは本当に代替不可能性を感じさせてくれるものです。

 

同じような顔や同じような身長、同じようなIQといった「属性」や「有用性」で言えば、子供だって究極的には他人からしてみたら大差ありません。

 

しかし、やはり自分にとっての配偶者や子供は自分にとっては唯一無二の存在です。

 

圧倒的に代替不可能なものです。

 

私は人生の醍醐味は「一回性」にあると思っていますし、これが科学によって人生を語ることができない所以です。

 

属性や有用性だけで見たら「似たような人」は世の中に溢れていますが、家族や友達から見るとやはりそこには「一回性」があるわけです。

 

それが仕事と家族から得られる幸福感の最大の違いではないかと思っています。