HKの徒然草

辣腕会社経営者が、人間や社会について論じています。京都大学法学部在学中に起業し、現在は代官山アドレス在住です。特技は語学で英検1級。

英語教育と母国語の教養

とあるテレビ番組で、サエコが息子達を英国のボーディングスクールに入れることについて意気揚々と語り、林修がそれについて反対したそうです。

英語教育の議論になると日本人は、「判」を押したように、

A「早期の英語教育は圧倒的に子供の人生に有利。幼少期から英語に触れる環境は大切だ。」
B「いやそんなことはない。母国語の能力の涵養の方がずっと大切だ。真の国際人とは、自国の歴史や言葉に通じている人間を言う。」

という対立構造になります。

あらゆる英語教育の議論は、この変形バージョンです。

私はどちらの意見もある程度考慮した上で、「わざと」後者に反論したいと思います。

Bの意見はどちらかというと、「英語が話せない日本のインテリ層(年配男性)」に多い意見です。

そして、Aの意見は若い(頭の良くない)女性にありがちな意見です。

そしてB派から見ると、Aの意見は「格好のマウンティングの餌食」になります。

自分をちょっとインテリだと思っている人間から見ると、Bの意見は「インテリっぽく」て自尊心をくすぐってくれます。

「英語よりまずは日本語だろ。母国語で議論をする能力こそ大切だし、自国の地理や歴史を知らないものが真の国際人と言えるだろうか。ハワイのショッピングのために英語を学ぶのではない。中身のある英語を話さないと意味がない。」

うーん、かっこいいですねえ。笑

でもね。

別に世の中の人間の全員が全員「教養ある国際人」になりたいわけではないんですね。

「前提」を共有できない人間には何の説得力もないわけです。

私は英語が非常に出来るので思うのですが、「英語より母国語」と言ってる人のほとんどは「英語が話せない言い訳」をしているだけです。

まず TOEFL ibtで100/120程度取れないのであれば、もはや「英語の中身」以前に語学力として論外です。

はい、さようなら。笑

確かに、英語だけ話せて大して中身がないのはちょっと問題ですよ。

でも、これは「言葉の特殊性」ですが、「英語ができない」のは「言葉が話せない」のと同じくらいやばいシチュエーションってあるんです。

仕事で英語を使う立場になって、「教養を感じる英語」、「中身のある英語」以前にそもそも英語力がなさすぎて本当に無力感を感じる瞬間を味わったことがある人は結構いるはずです。

「英語だけできてもダメ」ですが、「英語ができない」のは今後のグローバル世界では圧倒的に情弱です。

しかし、B派の人が面白いのが、英語に対してなぜか「英語だけできても」と言いますが、日本の高校の勉強なんてほとんど「それだけできても意味ない」っすよ。笑

積分運動方程式ローマ帝国の歴史も仕事してから全然使ってないし。

「曲線で囲まれた部分の面積を求める手法」は私の人生に何の役にも立ってません。

「思考のトレーニング」にはなってますが、別に正直あれがベストなものだとも思えません。(「やらないよりやったほうがいい」のは当たり前です。問うべきは費用対効果ですので。)

積分だけできても意味がない」なんて言わないのに、「英語だけできても」を強調するのは不思議ですね。

ていうか、そもそも発想が「ビジネスマン(実務家)」ではなく「学者」なんですね、B派の意見の根底にあるのは。

英語ができなくて困る経験をしたことがないからそんな悠長なことが言えるのですよ。

A派も浅いですが、B派はB派で頭がかたいです。

てか、鬼難しい評論文を英語で読んでみんなで英語で議論したりしたら、一石二鳥で英語も教養も身につくし、ある程度から先は、英語と教養は二項対立で考える必要はありません。