HKの徒然草

辣腕会社経営者が、人間や社会について論じています。京都大学法学部在学中に起業し、現在は代官山アドレス在住です。特技は語学で英検1級。

こだわっている事

ひとつ前のブログでも申し上げましたが、予想に反して私のブログは様々な地域の方に読んでもらえてるようです。

 

ですので「東京(か関西あたり)特有のお話」は凄く離れたところにいる人から見て肌感覚でよくわからないかもしれません。

 

「タワーマンションの階数」や「会社名の細かいランキング」、「東京の港区と足立区の違い」なんて「へー、そんなのあるんだねー」くらいの感覚しかないかもしれません。

 

まぁ逆にあまり離れた場所にいる方だと、プラスの感情もマイナスの感情もないかもしれませんが、たまにこういった話をすると、「そんなことにこだわるのは馬鹿げている」といった「模範的な回答をする方」がいます。

 

しかし、人間とは愚かなもので、何かしら自分のコミュニティで価値があるとされていることに対しては、どうしてもこだってしまうところがあります

 

第三者から見るとものすごく愚かなのは言うまでもありません。

 

平安時代の話を本で見て、役職の帽子の色や「天皇を見ることを許されているか否か」など、今から考えるとよくわからない地位に翻弄されている平安時代の人間は愚かに見えます。

 

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今でも未開の民族はペニスケースのデザインや大きさにこだわってるようですが、それも少しアホらしく見えてしまいます。

 

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しかし、私たちは彼らを笑うことはできません。

 

私たちが彼らを笑えるのは、私たちは彼らが動いてる価値と全く違う価値で動いてるからです。

 

仮に西暦3000年に地球があったとしたら「平成時代の小金持ちは、建物の上の階に住んでいるのか下の階で住んでいるのか、なんて非常に愚かな基準でカーストが決まっていたらしい。平成時代の人間は阿呆だ」、「平成時代の東京という場所では、人は『名刺』という紙に書いてある役職などで右往左往していたようだ。くだらないものだ。」とその時の人間は判断するでしょう。

 

ここで私が言いたいのは相反する2つのことです。

 

まず、自分が今社会的な価値があると思っていることのほとんどは、「いまの日本」や「いまの東京」という特殊なコンテクストで意味を持つものです。

 

ポルシェがいいとか、タワーマンションがいいとか、三菱なんとかがいいとか、そういった価値は普遍的(時代や場所を問わず価値がある)でも何でもありません。

 

しかし、われわれは日常の雑事に紛れていると、こういった愚かさについてついつい無自覚になってしまいます。

 

「あらゆる価値は時代や場所が生み出した産物にしか過ぎない」と価値を相対化するべきです。

 

子供がかわいい、とか人を殺してはいけない、とかかなりの程度普遍的な価値と「社会的な価値」はそういった意味でまるで違います。

 

社会的な諸価値にこだわりすぎるのもくだらないでしょう。

 

とは言え、我々は一定のコミュニティに属して生きているのも事実です。

 

いくら「くだらない」と頭でわかっていても、やはり社会が評価するくだらない価値観から完全にフリーにはなれません。

 

私が尊敬する哲学者もやはり「港区に住みたい」、「教授になりたい」といった煩悩からフリーにはなれていません。

 

ですから、我々から見て、平安時代の人間が帽子の色にこだわったり、未開の人間がペニスケースにこだわったりするのは愚かに見えますが、我々も我々で何かしら社会的な価値に左右されてるのは否定できません。

 

まとめると。

 

社会的な諸価値は所詮社会が決めている普遍的でも何でもないくだらないことである

 

と相対化することも大切です。

 

しかし、「人間だもの」。

 

そういったくだらないことにある程度翻弄されてしまうのも人間ですから、何かしらの諸価値にこだわっている人間を頭ごなしに馬鹿にすることもできません。

 

「人がこだわっていないことであなたがこだわっていること」が1つ位はあるでしょうから。

 

社会的な諸価値はくだらないものの、なかなかそれらからフリーになれないのもまた事実です。

 

私としては、自分が属するコミュニティーが評価する社会的な諸価値を遠くから見つつ(相対化)、「軽く付き合う」くらいが一番良いバランスなんではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

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