シュナイダーが人間・社会・教育について論じているブログ

管理人略歴 会社経営者/法学士(京都大学)/代官山アドレス在住/英検1級/元Z会マスターコース講師

究極的には自分が満足すればいい

世の中には人の生き方に対して、あれこれ意見を言わないと気がすまない人が山ほどいますが、私は究極的に言うと

 

他人に迷惑をかけない限り、何をしてもどんな生き方をしても自由だと思っています。

 

これはわかる人にはわかりますが、JSミルというイギリスの哲学者の思想が底にあります。

 

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究極的なことを言えば 、人間どうせ死ぬわけですし、自分が生きたいように生きればいいのです。

 

こういう反論があるでしょう。

 

「いや、そうは言っても現実問題として、会社では上司や同僚に気をつかわなきゃいけないし、空気を読まなければならないし、自由に生きることなんてできませんよ」

「人の目を気にしないで生きることはできませんよ。だいたい、あんたも人の目を気にしてるでしょう」

 

こういった反論をしたい人の気持ちは分かります。

 

しかし、こういった人は上位概念と下位概念の区別がついていないんでしょう。

 

例えば私もそれなりに人に認められたいと思っていますし、いい人だと思われたいとか、頭のいい人だと思われたいとか、常々思っています。

 

しかし、これが私の中で究極の上位概念ではないのです。

 

要するに、私自身が満足感を得ることが最大の上位概念であり、ある種そのための手段として承認欲求を満たしたいわけです。

 

承認欲求なり、物欲なり、はそれ自体が人生の目的ではありません。

 

最終的にそれが自分の幸福に寄与しているからこそ価値があるわけです。

 

承認欲求を満たすために心身ともに疲弊していたら何の意味もありません。

 

物欲を満たすために必死になるなど何の意味もありません。

 

人間は、狭い世界しか見ていないと、本来手段であることが目的になります。

 

例えば、東京の若い女性はやたらと富裕層の男性と結婚したがっていますが、婚活の疲れで精神を蝕んでいるような人がたくさんいます。

 

本来幸せになるための結婚なのに、結婚することが目的化するわけです。

 

港区のお母さん方も、子供を良い学校に入れようと必死ですが、そんなことが人生の目的のはずがありません。

 

あくまで自分や子供が幸せになるための良い学校でしょう。

 

家族や趣味といった本当に大切なものは目的と手段という観点で捉えられるべきではないと思いますが、人生のほとんどのことは目的と手段に分解すると非常に自分の中で思考がクリアになります。

 

お金持ちの男性と結婚したいのも

ゴールドマン・サックスに就職したいのも

医者になりたいのも

 

それ自体が目的というよりは、あくまでも高次の自己実現のための手段でしかありません。

 

私が都会人を見ていて非常に不思議なのが、ほとんどの人は「コスト意識」がないのです。

 

人生は有限なのに、手段であることに対して非常に執着しているように見えます。

 

夜の22時まで働いてタワーマンションに住んだり、子供を私立学校に入れたり、高級車を買ったりするような生き方は私には信じられません。(まぁ、世の中の最底辺には朝から晩まで働いて薄給の人もいるわけですから、社会全体で見ればこういった人ですらそんなにひどいわけではないんですけど、、)

 

なぜならば、それらから得られる満足度がコストに見合っているとは到底思えないからです。

 

私は正直言って、すごく頑張って欲しいものなど全くありません。

 

頑張らなくて手に入るものだけ手に入れるようにしています。(というと、うがった見方をする人から見ると非常に嫌味なんでしょうけど、本心だから仕方ないです)

 

ちなみに、上のような生き方の人を「私は信じられない」と言いましたが、実は私はそういった人を全く否定していません。

 

「私は嫌」なだけですから。

 

もし、

高級車やタワーマンションといったアイテムから得られる満足感>激務によるマイナス

 

であれば、何の問題もないからです。

 

ただ私は、高級車やタワーマンションといったアイテムから得られる満足感<激務によるマイナス

 

だというだけです。

 

コストとリターンの不等号は人によって変わるでしょう。

 

ちなみに私は小中高とサッカーをやっていたときに、筋トレや走り込みといった明らかに面白くない練習もやっていましたが、これも結局「試合で勝つ」という上位概念のためです。

 

そして試合で勝ちたいのはそれによる満足感がすごく高いからです。

 

筋トレや走り込みによるマイナス<試合で勝つことの喜び

 

だからこそ、短期的にはあえて嫌なことをやっているだけです。

 

私は筋トレマニアではないので、筋トレそのものに喜びを感じる事はありませんでしたから、筋トレをやることによるメリットが何もないのであれば筋トレなどやらなかったでしょう。

 

しかし私が東京でさまよっている人を見ていると、「筋トレが目的化している人」にしか見えないのです。

 

「で、結局何がしたいわけ?」と私は疑問なわけです。

 

ちなみに、私は「欲しいものがない」と言いましたけど、「あるに越したことない」と思うものは死ぬほどあります。

 

国会議員のバッチとか、三菱や三井といった財閥系企業の役員の名刺とか、財務省事務次官のポジションとか、有名大学の教授とか何のリスクもコストもかからないんだったら全然欲しいですよ。

 

ただ、私は20歳位の時に、どこかで達観してしまって、結局どれだけ頑張っても相対評価で満足感を得ることは難しいし、「コストパフォーマンスが悪い」と計算しただけです。

 

例えば、官庁で事務次官になるとか、上場企業の役員になるとか、そういったことが自分の能力的に不可能だとは正直思いません。

 

しかし、そういった地位に上り詰めるために、休日も返上して仕事をしたり、嫌いな上司にへつらったり、ありえないほどのマイナスやコストがかかるからこそ、総合判断としてそういった進路はありえないと思っているだけです。

 

私は世俗的な意味では全く偉くない商人ですけど、コストとリターンを考えると、やはり自分の進んできた方向は間違っていないと思っています。

 

会社経営者というのは、会社法の改正によって完全にどうでもいい身分になってしまいました。

 

昔であれば資本金1000万円以上じゃないと代表取締役とは名乗れなかったわけですが、いまや誰でも形式的に「会社経営者」になれてしまいますから、もはや「会社経営者です」という自己紹介は「人です」、「空気吸って生きてます」位の立ち位置でしかありません。

 

何者でもないでしょう。

 

ですから、わかりやすい社会的なアイコンはあるに越したことはないなと思いますが、上で述べたように、その名刺なり身分に実際なりたいかと言えば、やはりコストを考えるとかなり微妙です。

 

朝から晩まで宮仕えの身分で、合コンやキャバクラなど会社の外の人間に「俺三菱商事事務次官)なんだよね」とドヤ顔ができることが、どうも私にはプラスマイナスで考えたときに微妙なのです。

 

デメリット  収入がそこまで高くなく、朝から晩まで宮仕え

メリット 外部の初対面の人間に比較的どや顔できる

 

と私の頭の中で電卓を叩いたときに、やはり微妙なわけです。

 

そういった意味では、結局今が自分の中では一番いいのです。

 

一番自分が満足感が高い方向に進んでいると実感できるからです。

 

繰り返しますが、究極的には自分が満足することが人生で一番大切なことです。

 

そしてその満足感を得るために、どれだけコストやリスクがかかるのかを計算して、プラスマイナスの総合評価により、進むべき道を決めることが大切です。

 

最終的に自分が良ければ何でもいいのです。

 

これは「ジコチュー」という意味ではなく、価値多元主義的な発想に依拠しています。

 

 

 

 

 

 

 

なぜ慶應は早稲田を圧倒してしまったのか

今日、たまたまカフェで慶應の赤本(過去問)をやっている女のコを発見しました。

 

そろそろ受験シーズンですね。

 

日本を代表する私立大学と言えば、言うまでもなく、早稲田と慶應

 

受験マーケットという意味でも、この二校は予備校関係者から見ても美味しいネタです。

 

学部時代、私は関西で予備校講師をしていたので、ピンとこないところもありますが、やはり首都圏や地方では早慶の人気は際立っています。

 

ところで、「早慶」とは言いますが、ここ10年で早慶は完全に「慶應優勢」です。

 

具体的なお話ですが、ダブル合格者のデータを見る限り、早大政経学部慶應法学部ですと、今は8:2程度の割合で慶應に進学します。

 

1980〜90年くらいに受験したアラフィフ以上の世代からすると「隔世の感」でしょう。

 

早大政経と言えば、名門中の名門でしたからね。

 

かたや、慶應の法学部(政治学科)などは、昔は「阿呆学部」と揶揄されていました。

 

しかし、今、卒業生の実績を見ても慶應の方が圧倒的に活躍しています。

 

なぜ慶應が圧勝したのか?

 

これには様々な理由がありますが、まず一つめに慶應の附属出身者は基本的にポテンシャルが非常に高い

 

大学から慶應ですと、基本的にはトップレイヤーではないというのが実状ですが、中学や高校の慶應は「トップレベル」なので慶應内部生はやはり基礎学力が一段高いのです。(特に女子生徒)

 

もちろん個人レベルでは基礎学力と仕事や教養は比例しませんが、「マス」で考えた時に、慶應内部生のポテンシャルは際立っています。

 

次の要因ですが、慶應の教授達の努力です。

 

マニアックな話ですが、慶應は、文系学部でも数学を試験に課していて、東大や京大、一橋の「おこぼれ」をいただこうという姿勢が一貫しています。

 

福澤諭吉の精神かどうかわかりませんが、慶應義塾に死ぬほど行きたい」私立文系組の熱意よりも東大落ちの優秀層の方が端的に「使える」という判断を優先しています。

 

残念ながら科目を絞って「慶應に来たい」と努力している学生より、東大受験にギリギリ及ばず不本意ながら慶應に来ている学生の方が(少なくとも学術面では)優秀であるとわかっているのです。(これも個人レベルではあまり関係ないですが、「マス」の統計では相関はあるでしょうね。)

 

慶應商学部などは、英語・数学・社会という超変則方式の試験を実施していますが、こんなのは「東大京大一橋を落ちた方、ぜひうちへようこそ。国立志望者も受けやすくなっております。お買い得ですよ〜」と言っているようなものです。

 

また、慶應経済は英語、数学、小論文ですから、これは国立理系の滑り止めにもってこいです。

 

プライドよりも「実」を優先するプラグマティズ的な精神がいかにも諭吉さんっぽいですね。

 

次に、試験自体が早稲田より慶應の方がデキがいいと私は感じます。

 

試験のディティールの差異が社会に出てからの活躍にそこまで優位な関係があるとは言えないですが、少なくとも、早稲田より慶應の方がずっと「いい問題」を出しています。

 

(私が定義する「いい問題」というのは「知っていれば解ける問題」ではなく、「少ない知識を組みあわせたら解ける「難しい」問題」です。)

 

早稲田はマークシートのくだらない問題が今でも比較的多いですが、慶應は、論述をさせてしっかり採点しています。

 

「手間がかかってもいいから、優秀な学生が欲しい」という意思表示でしょう。

 

慶應は、小論文がほぼ全ての学部であり、他の科目も国立型の考えさせる問題が多いです。

 

もちろん、実際の因果関係の特定はなかなか難しいですが、私が考えるに、慶應が早稲田を圧倒した理由はこの辺りにあるのではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当たり前のことを当たり前にやる凄さ

日本人のメンタリティや教育について、諸外国と比較して否定的なことをおっしゃる人がいます。

 

「こんな教育をやっているから独創性が育たないんだ」といった意見はアメリカかぶれの論者によく見られます。

 

こういった意見に関して、私は半分ぐらい同意しています。

 

たしかに、日本のエリート層は他の先進国に比べると弱いような気がします。

 

しかし、国民全体のことを考えたときに、やはり日本の教育というのはそれなりに捨てたものではないと思うのです。

 

小学校や中学校では、掃除や行事といった形で「当たり前のことを当たり前にする訓練」がなされます。

 

私も他のポストで述べているように、確かに答えが決まったテストを重視しすぎる傾向があるのは日本の弱点ですが、計算や漢字といったやれば誰でもできることをほぼ全員がクリアしているというのは素晴らしいことです。

 

これは漢字や計算のスキルのみならず、仕事において当たり前の業務を当たり前にこなす能力を間接的に鍛えているのです。

 

アメリカのピーターティールやザッカーバーグ等を引き合いに出して、「日本からは天才が出ない」と日本の教育を嘆くのは一面的です。

 

郵便局のミスの少なさや、電車の遅れの少なさなどを考えると、やはり日本の教育はそれなりに良いものだと思います。(真面目すぎて弊害がないわけでもないですが)

 

世の中の仕事には、ホームランバッター的な要素とアベレージヒッター的な要素があります。

 

全ての人がホームランバッターである必要はありません。

 

「バンドの名人」や「守備がための人間」もやはり社会には必要です。

 

アメリカのようにホームランか三振か、という人材育成が必ずしもいいとは思いません。

 

アジアの発展途上国などに行くと、日本の地味な凄さを体感しますね。

 

当たり前のことを当たり前にするって一番難しいことですから。

 

 

 

 

知恵を身につけるほど素晴らしい投資はない

株や不動産、ビットコインといった実際の投資もやっている私ですが、よく言われてるように、教育も投資だと本当に実感します。

 

もちろん誰でも学術への適性があるわけではないので、過剰な一般化は禁物ですが、現代の知識資本主義世界において、「知恵や情報がある」というのは至上の価値を持っています。

 

ですから、知恵や情報を身に付けるための手段として、教育ほど効率の良い投資はありません。(まさにユダヤ人の発想ですね。)

 

株や不動産と違って、教育投資は比較的ボラティリティーが低いものです。

 

教育が奏功するとどうなるか?

 

まず頭で稼ぐことができますから、あまり頑張って働く必要がなくなります。

 

最近では、パソコンと頭さえあれば投資やアフィリエイトでいくらでも稼ぐことができます。

 

もちろん会社勤めで働きたいと思えば働くこともできますし、研究者として働くこともできます。

 

頭がいいと圧倒的に選択肢が多くなるのです。

 

また、一代目がうまくいくとさらなる好循環になります。

 

教育が奏功するとあまりあくせく働く必要がなくなるので、さらに自分の子供を効率よく教育することができるようになります。

 

時間とお金とポテンシャルがあれば、子供をそれなりに伸ばす事は非常に容易です。(配偶者の選択を間違えなければ特に)

 

また、「教育は投資だ」というと、「教育は稼げる人間を作る上で有益だ」と現世利益的な解釈「だけ」をされがちですが、知恵や情報の価値はお金や現世的な名誉だけのために存在しているわけではありません。

 

私が読書や学術が好きなので、少なからずバイアスが入っているのは認めますが、学のある人生ほど面白い人生もないのではないかと私は思うのです。

 

茂木健一郎も言っていますが、人は人生で読んだ本を積んだ高さから世界を見ています。

 

厳密には読んだ本のみならず、初等教育に使った教科書や受験参考書、旅行や知的な人間との会話などそれ以外のファクターもありますが、やはり人生で勉強した時間に比例して私は人生が楽しくなると思っています。

 

それは繰り返しますが、年収が上がるとか地位が上がるとか、現世利益的なものではなくて、いろいろなことを知っている方が適切な判断ができますし、自由に考えることができるからです。

 

私は、地理や歴史を勉強して本当に人間や社会を見る目が変わりました。

 

また、物理や数学を学び、自然科学的に世界を解釈する手法を少なからず体得しました。

 

これにより持っている株の価値が上がったり下がったり、自分の社会的なステータスが上がったり下がったりしても、全く動じなくなりました。

 

学術的な視点で世界を解釈している人は非常に強いと思います。

 

年収や持ち物といった現世利益に関係なく、自分の世界観に圧倒的な自信が持てるからです。

 

宇宙や生物の歴史を考えたときに、また、人間社会の歴史的地理的な多様性などを鑑みたときに、「今自分の周りで起きている事」がいかに小さなことか気づくでしょう。

 

ほとんどの日本人が現世利益に翻弄されて不幸なのは、「自分の周りの半径5メートル」程度の世界しか見ていないからです。

 

特に若い女性は、身近な友人と比較してマウンティングをお互いしてカーストに翻弄されて不幸になっていますが、それは結局のところ自分の周りの狭い世界しか見ていないからです。

 

日本でどれだけ貧しいと言っても、エチオピアとは比較になりませんし、江戸時代の飢饉とも比較になりません。

 

また、我々がどれだけ生きても最大100年程度。

 

人間の歴史はおよそ4000年、地球の歴史は46億年、宇宙の歴史は146億年です。

 

宇宙や地球という規模で考えたら、ほんとに私たちは小さいのです。

 

それなのにわれわれは、本当に小さい小さい比較やカーストに悩み、翻弄されています。

 

結局それは学術的な広い視野で世界を解釈していないからです。

 

自分の周りの限られた世界だけを見ているから自分がみすぼらしく感じるわけです。

 

教育を受け、知識や情報を身に付けて、知恵や教養のある人間になれば、現世利益でちょっと良い状態でもちょっと悪い状態でも、そんなことは些細なことだと気づくわけです。

 

やはり教育ほど人生を豊かにするものはありません。

 

私はそのように信じています。

 

ps ま、以前のポストでもお話しましたけど、みんながみんな賢くなってしまったら社会は回らないわけですが、、  みんなが賢かったらアマゾンの配達員とか飲食店の店員がいなくなってしまいますからね。。

 

 

漢字と計算の違い

❇︎主に小学生のママ・パパへのお話です。

 

小学生の勉強の中心は言うまでもなく計算と漢字です。

 

しかし、漢字と計算ですと、微妙に「勉強の進め方」が違います。

 

これは高校生にまでつながる学習のコツですが、勉強には

 

連鎖・積み木型

 

独立型

 

という二つの分野があります。

 

例えば、算数などは典型的な前者型で、足し算⇨掛け算⇨一次関数⇨二次関数と全て「左がわからないと右がわからない」という関係になっています。

 

しかし、これに対して、漢字は完全に独立型です。

 

小1レベルの「花」や「九」という漢字が書けなくても、「憂鬱」や「薔薇」という漢字を書くことは理論上できます。

 

英文法や高校数学のように「中間型」もありますが、基本的には勉強は全て連鎖・積み上げ型と独立型に区分できます。(「比較」が分からなくても「仮定法」の理解はできますが、五文型や時制がわからないとやはりちょっと英文法全体の理解はキツいでしょう。高校数学も「間」ですね。二次関数がわからないと微分は意味不明ですが、二次関数がわからなくてもベクトルや確率はとりあえず理解できます。分野によります。)

 

そして、このような二つのタイプは勉強の進め方が少し違います。

 

連鎖型は完全に前の分野を理解して次の分野に行く必要がありますが、独立型はむしろいい加減でもいいのでどんどん先に進み、繰り返す回数を増やしたほうがいいでしょう。(独立型は要するに「暗記」の問題なので、「一回あたりの精度」より「触れる回数」の方が大切だからです。)

 

書店などに「勉強法」の本がありますが、危険なのは文系の難関資格試験を突破した著者です。

 

公認会計士試験や司法試験に合格した会計士や弁護士の先生は、比較的「短期間で早く回せ」というアドバイスをしがちですが、もちろんこれは会計士試験や司法試験には当てはまるでしょうけど、理系科目には少し当てはまりません。

 

「勉強法一般」という意味では少し間違っていると思います。

 

また、独立型と言っても、日本史と会計学民法などでまた微妙にタイプが違います。

 

日本史などは、歴史の専門家には怒られますが、ほぼ完全に独立と考えていいでしょう。

 

室町時代の知識がゼロでも、江戸時代で満点は取れます。(が、高度な論述問題などはまた話が別です、念のため)

 

公務員試験や司法試験などの民法は、また少し独特です。

 

総則をやるのに債権の知識が必要だったりしますから、とりあえず早く回すことが大切らしいです。(合格した友人達は言っていました。)

 

少し具体例が長くなりましたが、まとめると。

 

細かく分類したらもう少し分けられなくもないですが、原則的には勉強は「連鎖積み木型」か「独立型」に分けられます。

 

前者は、丁寧に積み上げることが大切であり、後者は多少いい加減でも早く全体を見ることが大切です。

 

「勉強」と言っても分野によって勉強法が違うことはいくら強調しても強調しすぎることはないでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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そろそろ計算機やスマホを持ち込んでも良いのではないか

小学生の子供に漢字などを教えていてちょっと思ったことですが。

 

今の時代に果たして漢字を自力でかける必要があるのでしょうか?

 

もちろん日常生活でメモに使うようなレベルの漢字であれば書ける必要がありますが、現代はパソコンやスマートフォンの時代ですから漢字は基本的に読めれば良いわけで、自分で書ける必要はほとんどありません。

 

「真面目」な方は、以下のように反応するでしょう。

 

スマートフォンで調べたり、パソコンで変換できるからといって漢字が書けなくていいということにはならない。何も見ないで自力で書けることに意味がある」

 

これはもっともなように聞こえます。

 

しかし、「自力」というのはなかなか不思議な表現です。

 

より抽象化して言うと、人類は様々な道具を生み出すことにより、自らの能力を退化させるというある種の矛盾をうみ出してきました。

 

スマートフォンの発達により、我々の自分の力で検索する能力や記憶する能力は著しく低下したでしょう。

 

しかし、それを我々の「能力の低下」と考えるべきかどうかはなかなか判断が難しいところです。

 

単純作業を機械に任せて、その分人間にしかできない営みに力を入れた方が人類全体としてはプラスなのではないでしょうか。

 

「道具を含めて自分の能力」と考えればいいわけです。

 

これはもうちょっとプリミティブなレベルでも当てはまります。

 

我々は車や電車といった乗り物を発明することにより自ら歩く必要がなくなりました。

 

当然原始時代の人間よりも我々の方が圧倒的に足腰は弱いでしょう。

 

船やボードを発明することにより、我々は自力で泳ぐ必要がなくなりました。

 

当然原始時代の人間よりも我々の泳ぐ能力は低下しているでしょう。

 

われわれはエアコンを発明することにより、外気の気温に左右されず快適な生活を送ることができるようになりました。

 

当然我々の体温調整能力は原始時代の人間より著しく低くなっているでしょう。

 

しかし、それを持ってして我々の能力が低下していると考える必要はありません。

 

私も眼鏡とコンタクトレンズをしていますが、これをもってして「僕は自力でものを見ていない」と考える必要はありません。

 

上でも書きましたけど、道具も含めて結果として何かができていればそれで十分なのです。

 

「自力かどうか」というのは極めて恣意的です。

 

田舎で職場に通勤するのに車を使ったところで、「ずるいことをしないで自力で走ってこい」とはならないでしょう。

 

同じように漢字が書けることの意味は今後相対的になくなるでしょう。

 

また算数や数学における計算もそろそろ計算機を認めても良いのではないでしょうか。

 

もはやスマートフォンが、メガネのように体の一部といっても差し支えないほど我々の生活に普及していることを考えると、計算を自力でする必要などほとんどありません。

 

ただ、もちろんこれも程度問題です。

 

式を立てるまでは自力でやる必要があるでしょう。

 

また、小学生レベルの計算などは自力でできる必要があると思います。

 

買い物の計算などは、スマートフォンで計算をする方が遅くなるからです。

 

ただ、定積分の計算などで「ただ単に計算がややこしいだけ」の問題を解くときに計算機が使えないのは「車を使わないで走ってこい。それが自力というものだ」というのと一緒です。

 

ちなみにプラグマティズムの国アメリカでは、計算機やパソコンの試験場への持ち込みを認めています。

 

それでもこう言って引き下がらない人もいるでしょう。

 

「いやでもやっぱり自力で計算できないより計算できた方が良いのではないでしょうか」

 

そりゃそうでしょう。

 

しかし、人生は有限です。

 

ですから大切な発想は「費用対効果」なのですよ。

 

計算機ができる計算をわざわざ人間がすることが人生においてそこまで大切なことなのか、ということです。

 

繰り返しますが、何が自力で何が自力じゃないのか、は非常に恣意的です。

 

先入観に騙されないようにしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自然を求める病

皆さんは「自然」という言葉を聞いて何を思い浮かべるでしょうか?

 

青い海

空気が綺麗な山

といったモノを思い浮かべる人が多いと思います。

 

しかし、文字通り「自然」科学のレベルで考えたときに、いかにも不「自然」な都会のアスファルトも高層ビルも化学調味料も、すべて自然界に存在しているという意味では「自然」です。

 

環境問題等に関して、「自然を大切に」といったスローガンを唱える人はいますが、よくよく考えてみたら、地球上に我々のような獰猛で自己中な動物が存在していること自体「自然」なことです。

 

「自然」や「環境」といった言葉を使うときに、えてして我々は「我々にとって都合の良い自然」を「自然」だと考えます。

 

先ほどもあげたように、アラスカの大自然や沖縄の綺麗な海といった、人間にとって都合の良い自然を切り取ってわれわれは「自然」と言いますが、これも非常にご都合主義です。

 

それらが「自然」というのであれば、地震津波も全て「自然」現象です。

 

つまり私が何が言いたいかというと、本来世界(自然界)に存在してるものは全て自然なのです。

 

ただその中で我々にとって都合の良いものを美化したり抽象化したりして、我々は「自然」と呼んでいるだけです。

 

よく「都会の疲れを癒しに大自然を」などと言いますが、(水を差すようで申し訳ありませんけど)これも自然界の中で人間にとって都合のいい部分を切り取って解釈しているに過ぎません。

 

アラスカやタンザニアの自然ツアーなどを体験して「自然」をわかった気になってはいけません。

 

柵がついた車など、ある種の「人為」が絶妙にブレンドされた「自然」なわけですから。

 

何の武器もなく本当にジャングルやアマゾンに投げ出されたら、都会育ちのわれわれは食べ物も取れずに餓死するでしょうけど、こんな「自然」は我々は嫌なんですよね。笑

 

あくまでもある程度コントロールされた自然を欲しているだけなのですよ。

 

ジャングルのシマウマを愛でつつ、本当の危険に瀕することはないように絶妙にコントロールされている自然をわれわれは楽しんでいるだけです。

 

このことは環境問題や自然について語る上で絶対に忘れてはいけない視点でしょう。

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