HKの徒然草

辣腕経営者が、人間や社会について偉そうに語っています。京都大学法学部在学中に有名予備校で講師をしていたので、教育や受験制度、それにまつわる社会科学的なテーマに関心があります。

成功者しか表には出ない

Only successful people have the right to express their views on life.

最近「ベンチャーを若者に薦めるのは間違いだ」といった趣旨のブログを拝見しましたが、非常に共感しました。

たしかに、ある程度いい大学の学生で、新卒で一流企業に行かずに起業してうまくいく場合もありますが、当然「失敗例」のほうが成功例よりも圧倒的に割合としては高いわけです。

書店に行けば、成功した企業家や勉強の達人のような人が様々なかっこいい本を書いてますが、彼らが本を書けるのは成功者だからです。

「起業に失敗して借金まみれ」なんて話や「不合格体験談」なるものは世に出ません。

私の友達でも、研究者の夢が破れて大阪の小さな塾で先生をやっていたり、司法試験に敗れて公務員試験や大学受験の予備校で嫌々講師をやっている人間などもチョロチョロいますが、当然彼らは東京の丸の内や港区などに出てくることもなければ本を書くこともありません。

ただただ人生の落伍者として苦渋を舐める日々です。

彼らは怠けたのでしょうか?

外から見ていて彼らは必死に努力していましたし、才能だってそれなりにある方です。

それでもある程度以上の世界では通用しません。

為末選手じゃありませんが、「うまくいっている人は死ぬ気で努力している」とは言えますが、「死ぬ気で努力すればうまくいく」などとはある程度レベルの高い世界では絶対に言えませんから。

港区のタワーマンションには、わりと美人で子連れの奥さんが「当たり前」のようにいますが、ここにいるからそれが当たり前なだけで、彼女たちは婚活レースの覇者です。

一般人としては頂点とも言える覇者だけが港区の高級タワーマンションに住めるわけですから。

結局のところ、表舞台に出て物申せるという事は、それなりに勝ち組だからです。

もちろん最終的に自分の人生の価値を決めるのは自分でしょうけれども、あまりにも俗世間の価値基準で負けている人間が自分の人生を肯定しようとしてもやはりどこか「負け惜しみ」が入るでしょうし、厳しいものがあります。

表舞台には成功者しか出てこないわけですから、あまり安易に自分の成功体験を一般化しないほうがいいと思います。

なぜか世の中には自分の特殊な体験を一般論として語りたがる人間が多すぎますが、結局「俺ができたから君もできるよ」とアドバイスをしたテイで自分の人生を肯定できますからね。

こういった影の部分を見ずに、成功者の話だけを鵜呑みにするのは大きな間違いです。

差別って難しい

What is difficult about social prejudice is that people who condemn like "that's prejudice"!" often prejudice on their part.People understand other people's prejudice because they prejudice.

差別というのはなかなか難しく、「それは差別だ!」と意気揚々としている人が実は一番差別的だったりします。

例えば、私がいつか社会を分析する文脈で「ブルーワーカーは」と発言した時に、「HKさん、それはちょっと差別的ではないですか?」と言われましたが、ブルーワーカーというのはそれ自体いい意味も悪い意味もありません。

私に指摘した人は、自分がブルーワーカーを見下してるからこそこのような発言につながるわけです。

私が「医者は」と発言したとしたら、「それはちょっと差別的ですから『医療従事者は』と置き換えるべきでしょう」などとは決して言わないでしょうから。

「デブ」や「チビ」、「田舎者」といった100%侮辱する表現が文字通り差別表現であるのは認めますが、「肉体労働者」、「売春婦」、「中卒」、「地方出身者」といったニュートラルな表現を「差別だ!」と言い始めると、あらゆる会話が差別表現だらけになってしまう気がします。

A「足立区のように所得が低い地域では・・」

B「足立区を差別している、差別だ!」

A「私立大学文系学部出身者のように自然科学のリテラシーが低い・・・」

B「私立文系をバカにするな、差別だ!」

A「地方出身者は港区に住みたがる」

B「地方出身者だと馬鹿にするな!」

何を言っても差別になってしまいます。

こういった文脈で「差別だ」、「バカにするな」と過剰に反応する人は、結局自分が差別していたり自分が一番馬鹿にしてるわけです。

自分が差別してるからこそ人が差別していることがわかる。

これが不都合な真実だと思います。

しかし、だからといって差別を放置するのが良いはずもありません。

ある程度、差別を糾弾することの欺瞞性は自覚した上で差別をなくすための努力をしないと、「正義を語る能天気なやつ」になりかねません。

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侍留先生のご著書を紹介

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この本を家の近くの代官山TSUTAYAで見つけ、早速購入して読んでみました。

私がこのブログで何度も強調していることですが、「社会人の教養」の半分ぐらいは高校の教科書の再学習に尽きます。

この本の著者も全く同じことを主張されていて、高校の受験参考書の復習こそが社会人としての教養の基礎だとおっしゃっています。

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とりわけ地理歴史は「雑学の宝庫」です。

私立大学ですと社会科は一科目しか必要ではないので、どうしても自分が受験科目として勉強した科目以外は手薄になりますから、高校の日本史・世界史・地理・政治経済・倫理ぐらいは全て簡単に復習をした方が良いでしょう。

この著者の方もおっしゃっていますが、高校の教科書や参考書というのは、「その分野について専門家にならない人でもこれぐらいは知っておいて欲しい」という文部科学省からのメッセージです。

なぜ将来エンジニアになる人がローマ帝国について知らなくてはいけないのか?

なぜ将来弁護士や商社マンになる人が物理の力学くらいは知らなくてはならないのか?

それは結局、いろいろなことを最低限知ってる人間こそがスペシャリストや専門家としても価値が高いということなのです。

スペシャリストとゼネラリストは二律背反ではありません。

ある程度ゼネラリストだからこそスペシャリストとしても有能なのです。

(まぁ、日本の国立大受験はちょっとその「ゼネラリストドグマ」があまりにも強すぎる傾向はありますが、センター試験で70点を取るぐらいの基礎学力はやはり全ての分野について持っておくべきでしょう。)

この著者のおっしゃってる事には全て同意できます。

ただ補足をするとすると、この本では自然科学と地理についてほとんど言及されていなかったので(それについては紙幅の関係かもしれませんが)、自然科学と地理の重要性についても強調しておきたいと思います。

とりわけ物理や化学がわからないと、宇宙やエネルギーといった最先端の自然科学のテーマはほぼわからないので、少しずつでもいいですから、意欲がある方は物理や化学の勉強もしたほうがいいでしょう。

この本を一読すれば、社会人がどうすれば教養を身に付けることができるか、についてクリアな道筋が見えるでしょう。

非常にオススメです。

人生迷走している友人と承認について

私はこのブログで何度も言っていますが、人間は基本的に承認を求めて生きています。

 

とりわけ我々のように先進国に生きていると餓死することはまずないですから、マズローじゃありませんが、やはり「人から認められること」は生きる上で非常に大きな生きがいとなります。

 

しかし、

 

承認を得るというのはなにげになかなか難しいことですから、「どうやったら自分の承認が得られるのか」についてはよくよく考えた方が良い

 

でしょう。

 

このネタについては今後も手を変え品を変え何度もお話をしたいと思いますが、今日私が言及したいのは、「身近な人間からの承認と会う頻度が低い人間からの承認」という話です。

 

当たり前ですが、

 

俗的な承認というのは基本的に「相対評価の世界」

 

ですから、例えば私が年収1億円だと三木谷さんや柳井さんに自慢しても「へ? そんなにビンボーなの?」と返り討ちにあうだけです。

 

タワマン自慢をしても、相手がたまたま自分のマンションの高層階の人間なら同じように返り討ちにあうでしょう。

 

一橋や慶応の出身者(男性)が合コンで女の子にどや顔しても、その女の子が医学部や東大の学生なら返り討ちにあうでしょう。

 

この手の相対評価での自慢や承認というのは、基本的に全て「相手の戦闘力」に依存していますから、「自分はどうすれば一番承認を満たせるか」をよくよく考えるべきです。

 

私の友人で慶応出身で法務省に勤めている官僚がいるのですが、彼は常に人生に不満を抱いています。

 

なぜならば、官僚の世界で法務省や慶応出身というのは、本当に底辺of底辺だからです。

 

私は、彼は「承認の獲得の仕方」が端的に間違っていると思っています。

 

彼は基本的に承認欲求が強い人間なので、ステータスを求めて官僚になりました。

 

別に仕事そのものに興味があって官僚になったのならば問題はないのですが、彼の場合、完全に地位とステータスを求めて官僚になったがゆえに私から見ると大失敗なのです。

 

そもそも官僚というのは、日本で一番権威的な集団です。

 

当然大学は東大法学部が普通で、財務省あたりですと東大法学部出身者以外は事務次官というトップの位置にはまずなれません。

 

歴史上、東大経済学部と京大法学部の出身者が数名ずつ事務次官になりましたが、それ以外の約60人は、例外なく東大法学部です。

 

当たり前ですが、私立大学出身者の事務次官など歴史上一人もいません。

 

つまり、慶応出身で官僚になっても最初から負けが決まっているわけですから、端的に選択ミスと言わざるを得ないのです。

 

私はいつも思うんですけど、

 

「普段顔を合わせる人間」にどう思われるかというのは非常に人生の充実度や満足度に大きな影響を与えます。

 

官僚というのは、たしかに日本社会で圧倒的に地位が高い仕事ですが、私の友人のようにその中のカーストで底辺では残念ながら人生の満足度はかなり低いでしょう。

 

当たり前ですが、人生のかなりの時間は仕事に費やされるからです。

 

そこで「職場での地位が最低でキャバクラでチヤホヤされる」人生と「職場での地位が圧倒的に高く、外ではそこまでチヤホヤされない仕事」のどちらがいいかと言えば私は圧倒的に前者だと思うのです。

 

繰り返しますが、結局日々顔を合わせる人間にどう思われるかが最も大切だと思うからです。

 

これが私の言う

「承認のコントロール

です。

 

専業主婦で言えば、「身分不相応だけどがんばって港区に住む」のか「ちょっとレベルを下げて埼玉県や千葉県に住むのか」なら、私は絶対に後者を選びます。

 

なぜならば、繰り返しますが、俗的な承認は相対的なものなので、年収800万円で港区に住めばカースト底辺で日々屈辱ですから。

 

しかし、同じ年収で埼玉や千葉に住めば相対的にかなり富裕層でしょうから、日々の満足感はこちらの方が高いのです。

 

法務省の友人の例と完全にパラレルに対応してるのが分かるでしょうか?

 

結局日々の生活で誰にどう思われるかというのが人間の満足度を決定づけると私は思っています。

 

私の住んでるタワーマンションでは、なぜかペット用の非常用のエレベーターに1人で乗る専業主婦の女性がいるのですが、よくよく見てみたら行き先は「4階」でした。(たまたま何度か見かけたのでカースト・マウンティング研究家としては調べずには居られずにこっそり車にエレベーターに乗りました)

 

「港区のタワーマンションに住みたい」と張り切ったもののやはり一番下の階にしか住めないがゆえに、そんな情けない行動をとるんでしょう。

 

タワマンのエレベーターで低層階のボタンを押すほど情けない行為はないからです。

 

この女性も法務省の友人と同じ「選択ミス」をしてしまったと私は思っています。

 

昔の友人に「私は結婚して港区のタワーマンションに住んでるの🎵」と言えばいい気分かもしれませんが、日々普通にエレベーターが乗れないなんてあまりにも惨めではないでしょうか?

 

同じような例をあげれば、

 

サッカーのJ1でベンチかJ2のスタメンか

電通の窓際族か博報堂のエースか

東京でくすぶっているか、岐阜で圧倒的に活躍するか

 

など枚挙に暇がありません。

 

ここで大切なのは、「1年に1回しか会わない友達に自慢する代償として日々顔を会わせる人にバカにされるのか」、「1年に1回しか会わない友達に馬鹿にされる代わりに、日々顔を会わせる人に引け目を感じなくて済むのか」といったバランスです。

 

そしてもはやここまで読んでいて「そんなの気にしなくてよくねー?」なんて浅い反応する人はいないと思いますが、そういったメンタリティーの方は自分は非常に幸せだと思ってください。笑笑

文系と理系のそれぞれの欠点について

今日は、アカデミックな世界でこれといって実績のない私が、文系と理系に特徴的な「悪い思考のパターン」について偉そうに論じる、というなんとも不遜なことをやりたいと思います。

 

ちなみに私は最初理系で最終的には文系学部を卒業した人間なので、まぁどっちも中途半端に分かってるつもりですから、どっちからどっちに対してもそれなりのことは言えるつもりです。

 

ですから、特に文系理系どちらかを擁護したいというバイアスもないので、それなりに正しいと私は思っています。(まぁ、どんな言説であっても自分すら正しいと思わなかったらそもそも発言すらしないですから、「正しいと私は思っています」ってあまり意味がない発言かもしれませんが、、笑)

 

まず文系の弱点ですが、文系、とりわけ数学を選択しなかった私立文系の人は、よほど理系の本を読んでるとかではないかぎり基本的に

 

数式や図形グラフなどを使った議論が弱い

 

です。

 

もちろん倫理や法学など価値判断の領域(純粋論理や数式で語れない世界)に関しては、コテコテの文系人間でも比較的鋭い議論をされる方もいらっしゃいますが、やはり物理や数学などで純粋に論理を使うトレーニングをしていない弱みは表面的には顕在化しませんが、やはり深く長い議論をしているとどこかで弱みとして出てくるような気がします。

 

物理が数学などの自然科学の世界では、余計な情報を切り落として純粋に数字や論理のみを扱いますから、それがやはり思考トレーニングとして非常に有益なのです。

 

(もし文系出身でこういった分野について強くなりたいのであれば、急がば回れで高校の物理や数学の勉強をした方が良いでしょう。)

 

これが文系の基本的な弱点です。

 

では、理系の方が圧倒的に文系より優れているのか?

 

これもちょっと違います。

 

実は理系の長所と文系の弱点はコインの裏表です。

 

理系の人の悪い特徴として、

 

「何でもかんでも自然科学的な視点で語りたがる」

 

という弱点があります。

 

上で「思考トレーニングとして物理や数学のような抽象化された世界を知ることは大切」と述べましたが、これはあくまで「思考トレーニングとして」という縛りがあり、まさか世界の複雑な現象を全て数式や形式論理で語れるはずがありません。

 

「対偶だから真」、「背理法より真」などと簡単に解決できる問題は社会にはありません。

 

なぜならば、人間や社会は矛盾やアンビバレントに満ちているからです。

 

私は未だに「いかに生きるべきか」、「なぜ生きるか」よくわからずに悩みながら生きていますが、これはニュートンアインシュタインでも絶対に答えが出ない問題です。

 

理系的な視点で答えが出る問題など、世界全体の問題の中でほとんどないと言っても良いでしょう。

 

こういったことが感覚的にわからないのは多くの理系の人の欠点です。

 

ですから、大切なのは文系的な視点と理系的な視点を融合させることであり、弁証法的にそれらを乗り越える視点でしょう。

 

まずは一定程度思考トレーニングとして理系的な世界を知りつつ、世界の多くの問題は理系的な視点では解決できないという、矛盾するようのな事実をかみしめることが正しく思考するためのコツではないでしょうか。

橘玲の新刊

あまり書評のようなことはやっていないのですが、橘玲さんの新刊は非常にオススメです。 f:id:HK2125:20170819235127p:plain

 

この本では、「どうすれば我々は幸福に生きられるか?」というありきたりでありながら非常に重要なテーマについて筆者なりの視点で書いてあります。

 

私がこの本に書いてあることで特に納得したことは以下の2つです。

 

・まずは幸福の土台を作ってその上に自分なりの建物を立てるべきだ

 

という発想です。

 

私は基本的に「幸福というのは多分に主観的なものである」と一貫して述べてきましたし、それは間違ってはいないと思いますが、この本を読んで少し意見を変えました。

 

たしかに、

 

幸福は自分が定義するものですが、「こうすれば不幸は避けられる」というルートは日本人であればほぼ共通

 

しています。

 

夏にエアコンがなかったら不幸

子供がポテトチップスしか食べられなかったら不幸

 

というのは日本人100人のうちの99人は納得するでしょう。

 

橘玲によると、やはりまずは最低限の幸福のインフラを整えた上で自分なりの工夫を考えるべきだということです。

 

それから、

 

・自分の人生の悩みは自分に似た人間に意見を聞くべきだ

 

橘玲は述べています。

 

たしかに人間には様々なタイプがあるので、自分と全くかけ離れた人間のアドバイスや生き方は参考になりません。

 

だからこそ、「似た人間」の言うことに耳を傾ける必要があるのです。

 

このブログの読者のみなさんも、ほとんどの方はお会いしたことがありませんが、やはりどこかで私と思考回路が似ていたり共通点があるからこそこのブログを読んでいただいてるんでしょう。

 

例えば

 

・どうせ死ぬのになんで生きるんだろう?

・仕事が生きがいって本当だろうか?

・人助けってちょっと欺瞞なんじゃないか?

・勉強や教育についてついついいろいろ考えてしまう

・本を読まないとうずうずしてしまう

 

etc

 

こんな「どうせ考えても仕方ないことを考えてしまう」のが私という人間の特徴ですが、みなさんもほとんどがこういったタイプの人間なのではないでしょうか?

 

橘玲のこの本はよく生きる上で非常に示唆的なことが書いてありますので、ぜひ一読してください。

 

なお、LINEがスマホの紛失によりデータ紛失されてしまったので、つながってる方にはご迷惑をおかけします。

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困った人を助けたい、という欺瞞

誰もが認めたくない人間のいやらしい感情について分析して、グフグフとほくそ笑むことを日課としています(気持ち悪い)HKです。

こんにちは。

 

昨日 「他人へのアドバイスは自分が気持ちよくなるためのもの」という不都合な真実について指摘しましたが、人間の「良い」とされる行為の大半も残念ながら「自分が気持ちよくなるためのもの 」です。

 

例えば、「困った人を助けたい」と息巻いている方がいらっしゃいますが、やはり「困ってる人を助けることによって『自分はいい人だ』と思い込むことができるから困ってる人を助けたい」という事実は否定できないでしょう。

 

私がよく言う例ですが、本当に人を助けたいのであれば収入の半分ぐらいをユニセフに募金すれば一番効率が良いのです。

 

功利主義的な考え方ですが、日本で困った人を助けるよりアフリカのサハラ砂漠で死にそうな子供を助けたほうが圧倒的に効用が高いのですから。

 

しかし、アフリカに募金をしてもある程度良い気分にはなれますが、やはり目の前の人間を助けたほうが圧倒的に気持ちよくなれますし、直接感謝されます。

 

だからこそ効用が高いアフリカへの送金より、身近な人間へのサポートを我々は好むのです。

 

別に、私は目の前の困った人を助ける事自体は否定しませんし、むしろ奨励されるべきだと思っています。

 

しかし、人助けや正義という言葉を用いた瞬間にあらゆる多様性や思考が失われる可能性を私は指摘したいのです。

 

「自分が気持ちよくなるために人助けをしたいのだ」と醜いスケベ心を直視した上で人助けをするのが賢者の思考回路だと思っています。