港区社長シュナイダーが人間・社会・教育について論じているブログ

管理人略歴 会社経営者/法学士(京都大学)/港区タワマン在住/英検1級/元Z会マスターコース講師

言うことを聞くかどうかはもう決まっている

私のブログの定期購読者の方は別として、たまたまGoogle検索などに引っかかって私のブログにやってきた人は、「なんだこいつ生意気なこと言いやがって」ときっと思うことでしょう。

 

それは私も自覚しております。

 

ただ、別に私もただ単に偉そうなことを言うのが目的なのではなく、歯に衣着せぬ意見を堂々と言った結果そのようになっているだけですのでご宥恕ください。

 

ところで、その人の発言が偉そうかどうか、というのは多分に発言者の属性で決まるものです。

 

例えば、あまり認めたくないのですが、私ははあちゅうやイケハヤあたりがどうも生理的に好きではない。

 

私はプロのブロガーではないでしょうが、彼らには形式的なアクセス数などでははるかに劣っているので、深層心理としてひがんでいるのかもしれませんが、同じような属性で好きな人もいっぱいいるわけですから、これは単に嫉妬という観点だけでは説明できません。

 

そこで自分の心理を分析してみると、やはりはあちゅうが「若い女性で経歴がいまいちいけていないから」というあまり認めたくない事実が浮き上がってきます。

 

これはあまり正面から認めたくはないですが、やはり人間は無意識の内に、女性よりは男性、若い人よりは年配の人の方に対して発言の信頼性を置くものです。

 

もちろん、これは理屈で考えたら非常に不合理で好ましいことじゃないことは明らかです。

 

しかし、それでも人間は頭ではなく感情の方が圧倒的に大切なのです。

 

イケハヤに関しては、発言そのものがなんとなく鼻につくわけですが、私が生理的に認めたくないのは、私が体育会系だったこともあって、いかにも文化部や帰宅部っぽいタイプのキモキャラ人間が偉そうにしていると非常に腹が立つからでしょうし、イケハヤは私よりだいぶ年下ですからね。

 

それに対してちょっとむかつくけどそこまでホリエモンがむかつかないのは、もちろん能力が圧倒的なのもありますけど、単純に彼が私より少し年上で、久留米附設→東京大学という経歴がそれなりに形式要件として信頼に足るから です。

 

ちなみにこのむかつく・むかつかないも、トピックによって違います。

 

ホリエモンの能力は圧倒的ですが、ホリエモンスクールカースト上位でサッカー部のキャプテンだったようにはどうやっても思えないわけです。

 

そんな彼が女性や恋愛について居丈高に語っていると、その時点で「お前が言うな」となります。

 

あくまでもホリエモンの権威は、仕事や頭の良さにあるわけですから。

 

また、逆の具体例を出しますが、ライフネットの出口さんなどは、話を聞く前になんとなく話を聞きたいと思ってしまいます。

 

出口さんは、ググってもらったほうが早いですが、還暦を超えた位の白髪混じりで良い感じの中年男性です。

 

出口さんの年齢見た目、京都大学法学部→日本生命という経歴は、中身以前にとりあえず聞いてもいいという気になります。

 

不都合な真実ですが、ウォンテッドリーの仲さんのように、ほぼ出口さんと同じようなスペックでも、なんか生理的に本を読みたいと思わない人もいます。

 

これを生理的に分析してみると、やはり彼女が、私と同じ大学の経済学部(➕論文入試っていう裏口入学)出身で自分より年下の女性であるというのが、無意識のレベルで彼女を認めたくない理由の一つなんでしょう。

 

ただ、はあちゅうと違うのは、仲さんは純粋に凄いと思っているので、これは端的に嫉妬でしょう。笑

 

「認めたくないけど認めるしかない」というのが実情です。

 

ちなみに、ここで論点を分けなければならないのが、理性と感情を峻別するということです。

 

年下だから認めたくない。

 

女だから認めたくない。

 

見た目がダサいから言うことを聞きたくない。

 

これは当たり前ですが、端的に間違っています。

 

しかし、そうは言っても、深層心理にどうしても影響があるのも事実です。

 

「年下や女だから認めないなんて小さいですね。チンポも小さいんじゃないですか」というおかしな反論をする人はもはやいないと思いますが、人間は感情の動物であることを理解しないといけません。

 

「俺はお前が女だから認めたくない」、「俺はお前が一回りも年下だから認めたくない」なんて口にするのはもちろん間違っています。

 

しかし、人間の感情は理屈ではないのです。

 

生理的に認めたくないことは認めたくない。

 

ですから私も皆さんも、自分の意見を通したいのであれば、端的に歳をとって偉くなることです。笑

 

人は見た目が9割といいますが、実は発言する前に相手はあなたの言うことを聞くかどうか決めています。

 

露骨な権威主義は論外ですが、やはり人間は、「誰が言っているか」を無意識に考えてしまっているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

京都大学でもまた物理で出題ミス

大阪大学に続き、京都大学でも昨年の入試問題でミスがあったとか。

 

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180121-00050000-yom-soci

 

関西の名門帝国大学で同じ年にミスがたまたまあったとは思えませんから、これは氷山の一角と見るべきで、東京大学東京工業大学などでも近い事は実際起きているでしょう。

 

この件で一躍有名になった予備校講師の吉田先生は、東京大学にも意見書を送ってるみたいですから、もはや日本の理系は大丈夫か?というレベルで心配です。

 

この件に関して私が感じたのは二つのこと。

 

まず、予備校講師のおかげで名門大学の殿様商売がいかに杜撰か一般大衆にわかったことが大学にプレッシャーをかける上で有益だったと思います。

 

白い巨塔」じゃありませんけど、大学の先生は内心「たかが予備校講師が偉そうな指摘をして」といまだに思っているはずです。

 

彼らに限らず「社会的に偉い年配男性」によく見られる傾向ですが、彼らは自分たちが悪いから欠点を直そうなんて思っていません。

 

まさに象牙の塔なわけです。

 

大体普通に考えたら、模範解答や採点基準を公表しないとか、傲慢にもほどがあります。

 

受験料を頂いてる「お客さん」なんですから、 それぐらいのことをやってもいいと思います。

 

そしてもう一つの感想ですが。

 

若干一つ目のお話と矛盾するようですけど、京大の教授から見ると、採点基準がちょっと変わったり採点ミスがあった位で落ちるような学生は最初から興味がないというのが本音です。

 

特に理系では、京大の教授は上位5%程度の学生にしか期待していないでしょう。

 

定員が3,000人と決まっているから仕方なく合格者を出してるだけで、教授がリアルに求めてるような研究の素養を持っている人は200人程度でしょう。

 

受験勉強だけしっかりやって、ロクに学問的な素養がない学生なんてハナから興味がないはずです。

 

彼らは良くも悪くも民間企業に就職する人間には興味がないはずですから、これだけメディアに叩かれても、民間企業に就職する学生が、数点の差で人生が変わることなど正直どうでもいいと思ってるはずです。

 

そういったアバウトさが京大らしさでもあるので、今回の問題も世間が思っているほど大した問題ではないのかもしれません。

 

問題は、合格最低点+5点とか8点とか京大にギリギリ受かる程度の学力でいきがってるくだらない学生やそれを過大評価する大衆です。

 

その程度の学力だったらそもそも運が悪かったら落ちてるわけですから、「たった1問2問のミスでガタガタ言うな」というのが京大教授の本音ですよ。

 

京大模試で上位ヒトケタに入るような人は、どうやったって絶対に受かるわけですから。

 

一科目白紙で受かりますよ。

 

私がこういうことを言うと、「いや入試なんて最低点でもいいから突破すればいいんだよ。最低点プラス100点で受かっても無駄」という輩がいますが、めちゃくちゃできる奴って別に努力しないでそれぐらい取っちゃうんですよ。(ただ、すごくできるやつはすごくできるやつは「結果として」+100点位で受かってしまうだけで、こんなものを目標にすることには意味がありません、もちろん)

 

特に体系的な意見ではありませんが、ちょっと矛盾する2つのことを思った次第です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

資本主義と欲望について

私が人生で多大な影響を受けた本が100冊あるとしたらその中に確実に入るであろう本がこの2冊です。

 

https://www.amazon.co.jp/「欲望」と資本主義-終りなき拡張の論理-講談社現代新書-佐伯-啓思/dp/4061491504

 

https://books.google.co.jp/books/about/不自由_論.html?id=ysDmPQAACAAJ&source=kp_cover&sa=X&redir_esc=y

 

両方の本に共通しているメッセージですが、われわれは自分が思っているほど自由ではないということです。

 

確かに、お腹が減ったから何かを食べようと思って手を伸ばすときに、それは自由意志で動いていると言えます。

 

排泄や生殖といった性的な機能に関してもそうです。

 

カントや自然科学のレベルで考えていくと、これらも自由意志と呼べるかどうかきわどいところですが、ここではそこまでアカデミックなレベルで突っ込む事はせずに、もうちょっとソフトなお話を。

 

ここで具体例に挙げたような極めてプリミティブな欲望はそれ自体が極めて自然なものです。

 

我々先進国の人間もアフリカの土人も、「ウンコがしたい」、「射精したい」というレベルの欲望は一緒です。

 

しかし、食欲や性欲、排泄といった最低限の欲望が満たされると、そこから先の我々の欲望はどこまでいっても社会の中で生まれてくる社会性のある欲望でしかありません。

 

私がことあるごとに「社会」、「社会」と語るのは、人間の欲望や思考のほとんどの部分は、社会によって作り出されたものだという強い信念があるからです。

 

普通の人が考えてる以上に、我々の欲望は社会に規定されています。

 

私が幼少期にサッカーや野球をやっていたのも、つまるところ日本に生まれたからであり、アメリカに生まれていたらアメフトやバスケットボールをやっていたかもしれません。

 

私は読書や勉強が好きですが、それですら結局、社会がそれを評価してるからこそ私は無意識のレベルで読書や勉強が好きだと思うのです。

 

我々が、自分の自由意志で選んでいると思っているものの大半は、社会によって作り上げられた欲望です。

 

女性がエルメスが欲しいのも、外資金融の男性と結婚したいのも、つまるところ社会によってそれらが価値があるものだと信じ込まされているからです。

 

佐伯先生の本には、このことが具体例を交えて詳細に述べられています。

 

私は、今の東京人の大半が不幸に見えて仕方ないのですが(特に女性)、それは自由意志と欲望のメカニズムが手に取るようにわかってしまうからです。

 

東京に限ったことじゃありませんが、先進国の都会では「これでもか」という位に欲望を刺激されます。

 

高価な洋服やバック

高級なレストラン

高級な車

有名なタワーマンション

 

こういったものが、「すごく価値のあるもの」かのように吹聴されます。

 

しかし、レストランはともかく、高級車やタワーマンションも、ブランドのバックも、所詮社会によって価値があると思い込まされているものです。

 

食べ物に価値があり、自転車に移動手段としての価値があるようなレベルで、内在的な価値があるわけではありません。

 

あくまでも共同幻想としてみんなが価値があると思っているからそれらに価値が与えられているだけなのです。

 

この前提を理解すると、俗世間のくだらない価値観から100%ではないにせよかなり自由になります。

 

自分が「欲しい」と思っているものは、厳密には「欲しい」のではなく、「欲しいと思い込まされている」だけです。

 

ベッドの上で女性がチンポが欲しいのは、本能に基づいた極めて正当な欲求ですが、「チンポが欲しい」のと、「エルメスが欲しい」は欲求の階層レベルが違うのです。

 

エルメスが欲しいとかタワーマンションに住みたいというのは、あくまでもそれが価値があるものだと社会に思い込まされているだけです。

 

実は、充足できなくてもたいして困るものではないと理解できるでしょう。

 

私が商業資本主義がキモイと思うのは、あらゆる広告がそうですが、ほとんどの商品は必要がないのに必要だと大衆の欲望を煽り、お金を使わせるシステムが出来上がっているからです。

 

タワマンいいよお?

子供をいつ私立に入れるの?  いまでしょ!

白いワンピースで合コンでステータスのある男性に気に入られましょう!

あなたもモテるために永久脱毛しないと!

英会話ができたらかっこよくない?

 

ほとんどの欲望は社会によって作り出された欲望であり、別に本当はたいして必要がないものなんですが、広告代理店という資本主義の申し子は、それがさもなくては困る必需品かのように大衆の嫉妬心と不安感を煽ります。

 

まだ仮想通貨やってないの?

港区に住みなよ!

 

こんな感じですよね。

 

しかし、そうは言っても高度に発達した資本主義というのはこのように大衆の不必要な欲望を刺激しないと回らないようにできています。

 

だって本当に必要なものなんて誰もがみんな持ってるわけですから。

 

食べ物も洋服もトイレットペーパーもお皿も椅子も机もあるわけですよ。

 

実は我々は「本当に必要なもの」なんてほとんどないんです。

 

その最低限の欲望を満たして「足るを知」ればいいわけですが、われわれ人間はエゴの塊なので、どこまでいっても他者との相対評価による優越感を感じたいのです。

 

こうやって欲望を刺激し続けられ、「まだ持ってないの?」という社会からの脅迫に翻弄されて不幸になっているというのが、東京の大半の人間の現状でしょう。

 

子供だって「任天堂スイッチまだ持ってないの?」となるわけですが、テレビゲームなど昭和の子供は持っていなかったわけで、これも所詮社会が作り出した欲望にしか過ぎません。

 

テレビゲームがないならないで昭和の子供たちは、缶蹴りや鬼ごっこなどで幸せに遊んでいました。

 

欲望が無理矢理作り出されているから、欠乏感によって不幸になるわけです。

 

これは歴史的な必然であり、著名な学者が束になってかかっても今現在解決できていないわけですから、私がこのブログで解決策めいたものを指摘すること自体がおこがましいと思うので、ここでは問題点の指摘だけに留めておきますが、少なくても事実としては現状はそうなっているということです。

 

佐伯先生の本やボードリヤールの本は本当に示唆的ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

説明している時点で負け

これは私の持論ですが、自分の過去の人生に起きたこととか自分の来し方について「わざわざ」説明している時点で全くいけてません。

 

なんで僕があの会社に行ったかっていうと

なんで私があの時に結婚しなかったかっていうと

なんで私が子供を持たなかったかっていうと

なんで私が起業したのかっていうと

うちの会社って〇〇なんだけど知らない?

なんで僕が家を買わないかっていうと

なぜ港区ではなく千葉にしたかっていうーと

なぜあの学部にも行ける成績なのにこっちの学部にしたかっていうと

etc

 

自分の選択について他人になぜか積極的に言いたがる人がいますが、これは潜在的に言い訳をしている自分を納得させたいからです。

 

そもそも本当に現状の自分に満足していれば、自分の人生についてことさら人に説明する必要はありません。

 

やはり何か後ろめたいとか侮辱されているという被害妄想や劣等感があるからこそ、ついつい自分でこと細かに説明したくなってくるのです。

 

聞かれてもいないことを積極的に説明した瞬間に「負け」です。

 

また、同様に他人の発言に対して、何かムキになって反論する方も全く同様です。

 

ムキになって反論したいという事は、潜在的にそのネタについて気にしている証拠です。

 

反応している時点で本当に興味がないわけではないのです。

 

例えば「あの人はお金の話ばかりする!」と言いたがる人は、潜在的に本当はお金が欲しいのです。

 

「人を見た目で判断するな」と言いたがる人は、残念ながら人を見た目で判断してる人なのです。

 

本当にそんなことを気にもとめないなら、トピックにする必要すらないわけです。

 

私がいやらしいカーストだとか社会の序列とかについて話していると、「人間の価値は社会的地位や年収では決まらないでしょう」「あなたは偏見が強すぎる」「受験の話とかしすぎじゃない?」と素朴な感想を持つ人もいるかもしれませんが、そういった方に不都合なことを教えてあげましょう。

 

もしこのような感想を持ってしまったとしたら、それはあなたも潜在的にこういったトピックについて本当は興味があるのです。

 

そして興味があるけれども正面からは認められないが故に、屈折した反応をするわけです。

 

例えば私が社会的なカーストやお金といったいかにも生々しいことを述べたとして、「そんな話ばっかりして!」と思う人もいるかもしれませんが、私がひたすら将棋やラクロスの話をしたとして、あなたはムキになって「ラクロスの話ばっかりして!」という反応はしないでしょう。

 

その事実が全てなのです。

 

人間は潜在的に気にしてるからこそ話題にしますし、他人のそのネタに対して強烈に反応してしまうのです。

 

人間の深層心理とは面白いものです。

 

 

 

 

採用担当者が学生の時の偏差値も大切だよ

受験シーズンですが、学校選びの基準として偏差値を目安にしてる人が多いと思います。

 

良い悪いは別として、学歴フィルターや役員の割合といった観点から、大学を選ぶことが大切と言えば大切です。

 

(私はこの点に関して「教育思想」というレベルで深いことを考えていますが、このポストでは浅い現世利益の価値観に従うこととします。以下の話は「極めてくだらないランキング話」であるという前提で聞いてください。)

たしかに、「いまの偏差値」も重要ですが、「昔の偏差値」や大学の伝統というのは実はかなり大切な要素です。

つまり、「いま偏差値が高いけど昔偏差値が低かった」大学というのは端的にオススメできません。

なぜならば、採用担当者は今の偏差値ランキングなども知っていますが、どうしても肌感覚で自分が受験したときの立ち位置が基準になってしまうからです。

自分が受験するときに(20年位前ですが)親と併願校などを相談するわけですけど、私立大の併願校はどこにするという話で、「慶応とかいいと思うけど」と私が言ったら、親は大反対で、「私立なら間違いなく、早稲田理工か政経」と絶対に言うことを聞いてくれません。

2000年以降に受験した世代であれば、私立文系のトップは慶応法と早大政経が双璧というイメージが強いと思いますが、1970年あたりに受験した世代の感覚で言えば、私立の有名どころと言えば早稲田政経が頂点であり、次に慶応経済であり中央法なのです。

慶応の法学部政治学科あたりはほぼマーチとみなされていたみたいで、中央法学部よりはずっと下というイメージみたいです。

この記事を書くにあたって、画像を検索してみたら出てきました。笑



これを整理したのが以下です。(引用)



たしかに、慶応法と立教経済が並んでいます。(っていう言い方も、立教関係者に申し訳ないけど。。  まぁ偏差値は科目数などによって微妙に違うので、当時の詳細が分かりませんから何とも言えませんけど。)

ランキングで言えば、

早稲田政経72

早稲田法70

慶応経済69

中央法68

慶応法63

学習院文63

立教経済63

ですから、アラフォーの親世代が「慶応法は低い」と考えてしまうのも理解できます。

 

慶応法は、1970年代には慶応でダントツでビリで「実質マーチ」ですが、いまや慶応でダントツトップで人気は早稲田政経を凌ぎます。

 

いまのランキング↓

 

f:id:HK2125:20180121104210p:image

 

還暦を過ぎたオジサマからしたら、「隔世の感」でしょう。

あと、30年ほど前に上智大学の人気がぐんぐん上がっていき、「早慶上智」という受験用語も使われるようになりましたが、結果的に上智大学はやはり早稲田慶応ほどの地位にはなりませんでした。

それは歴史的に仕方ない話です。

早稲田や慶応は、福沢さん、と大隈さんが作った、日本を代表する私立大学ですから、やはり卒業生の実績が上智とまるで違うわけです。

一時的に「上智バブル」がありましたが、やはりいまの上智は「マーチ以上、早慶未満」です。

また、早稲田で、社会科学部という学部の人気がどんどん跳ね上がっていますが、社会科学部は元夜間学部なんですよね。

どうしても今の50代60代から見ると、「夜間学部で早稲田の中で一番簡単」というイメージは拭えません。

 

慶応法が60代70代のおじさまから見てどうしても高く見えないように、「イメージ」はなかなか変わりません。

結構「イメージ」というのは重要で、社会人になって細かい偏差値を気にする人はほとんどいません。

出身校というのは、身だしなみや女性の顔のようなもので、とりあえず初対面の人間を判断するときに重要なもので、ある程度深くなってしまったらあまり関係ないものです。

所詮「イメージ」なのですよ。

 

でも「イメージ」も大切ということも理解しないといけません。

そのように考えると、「採用担当者や社会の上層部の50,60代の人間がどう判断するか」というのは知っておいたほうがいいです。

今後仮に明治大学の偏差値が上がり続けて、「早慶明どれにする?」などという会話が受験生で普通になったとしても、やはりアラフォーの私の感覚で言えば「早稲田慶応>>>>明治」であり、「いまは明治が慶応より良い」と言われたところで感覚的には納得できません。

 

慶応法や早稲田社学を上の世代が認めないようにですね。

このように、採用担当者の感覚というのはなかなか無視できないものです。

「昔の偏差値ランキング」というのも実はそれなりに就職をする上では大切です。

現世利益ゴリゴリのくだらない話でしたが、こういったランキングトークも面白いっちゃ面白いですね。笑

人生の前半の成功体験は両刃の剣

一般論で言えば、人生の早い段階で良い流れに乗ってしまった方がその後の人生が楽である事は否定できません。

 

やはり、名門高校や一流大学から一流企業に就職したり、医者や弁護士になったりすると、幸福な人生が歩める可能性は圧倒的に高いです。

 

しかし、成功体験は両刃の剣だというのが私の持論です。

 

これは男女問わず当てはまることですが、小中高などにちやほやされたり賞賛されることがデフォルト化されていると、そうじゃなくなったときに主観的に辛いと思うのです。

 

山に登った後は頂上に居続けるか降りることしかないわけですから、成功体験というのは、本当に両刃の剣です。

 

女性でも、それなりに美人で30歳位で生き遅れて困っている人はいっぱいいますが、異性ですけど、彼女たちの苦悩は痛いほどわかってしまいます。

 

全く「モテ路線」から縁がない女性であれば、そもそもステータスがある男性と結婚しようとか、そういった発想がないと思うんです。

 

普通に地元の郵便局のフツメン職員と結婚するとか、地味で幸せな人生を享受することができるかもしれません。

 

しかし、中高大とサッカー部のキャプテンとか野球部のレギュラーとかそういった男性と付き合ってきて、社会人になっても商社マンや医者と付き合ってきたような女性は、なかなか「賞賛される旨味」が体から抜けません。

 

どうしても、他者から称賛されたり羨ましがられたりすることが人生のアイデンティティーになってますから、「戦いから降りる」のがなかなか難しいのです。

 

医者や商社マンと結婚したいとか、そういった願望がどうしてもゼロにはなりません。

 

若い時に若いというだけでそれなりにモテて、東京でそれなりの地位がある会社経営者や外資金融の男性などに相手をされると、「私の適正値はこれぐらい」という思い上がった考えが体に染みつきます。

 

男性にしても、12歳の中学受験で成功して名門校に行ってしまうと、6年後に最難関大学に行けなかった瞬間に「自分は落ちこぼれ」だという歪んだセルフイメージが完成します。

 

同じように、最難関レベルの大学に進学してしまうと、社会人になって何かしらうまくいかなかった時に、なかなかその現実が受け入れられません。

 

本当は「成功」などかなりの程度が「たまたま」で、自分の能力が土俵と偶然適合していただけなのですが、「賞賛されることの美酒の味」を知ってしまうと、なかなか「イケてない今の自分」が受け入れられません。

 

そこで「過去の武勇伝」を語る情けない人間になってしまうわけです。

 

「学生まで優秀であった人」と「社会人として優秀な人」は重なりはあるにせよ、当然違います。

 

それでも、「昔の勝ち組」はなかなか「昔の序列のままであって欲しい」という情けない願望がなくなりません。

 

頭では「逆転された現実」を理解していても、感情レベルでは絶対に納得できないはずです。

 

出世レースに敗れた人間が「あいつは、あそこの大学しかでていないのに、、」と言いたがるのは、感情レベルで受け入れがたいからです。

 

結局中途半端に途中でうまくいってるからこそ、「落ちぶれた自分」が正面から受け入れられません。

 

先ほど具体例に挙げた女性も、「自分は昔から常にモテてきた」というセルフイメージがプライドとして結婚相手を選ぶ上で邪魔をするわけです。

 

「イケメンで年収も高くて、面白くて、セックスも上手で、、」と条件を列挙せずにはいられないのです。

 

「私はサッカー部のキャプテンや外資金融のような一番賞賛される人と付き合ってきた」というプライドがどうしても正常な判断を失わせるのです。

 

「30を超えて、激しく女性としての市場価値が下がっている。もっと普通の人に妥協しないといけない」という事実を正面から受け入れることができません。(そもそも「妥協する」という表現自体が失礼なわけすが、こういった思考回路の女性の中では「妥協」ですからね。)

 

ですから、人生で負けた時は、少しプラスに考えた方がいいかもしれません。

 

人生の前半でそれなりに負けていれば、「人間勝つ時も負ける時もある」とある程度達観できるからです。

 

成功体験ほど正常な判断を失わせるものはありません。

 

「株を守る」という中国の諺を思い出しましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おい、デブ」

我々は、特定の人に対して何かむかつくことがあったときに、何故かその人の属性を貶したがります。

 

ちび

デブ

ハゲ

在日

小梨

負け犬

etc

 

私もちょっとむかついたことがあると「なんだ、あのハゲ」と心の中で叫んでいます。(口には出しませんよ、もちろん)

 

また、社内で自分の意見が通らない時に、「なんであのハゲはわかってくれないんだ」、「あのデブのせいでこんなことになった」、「あいつは在日だからひがみっぽいんだ」、「あの女はコナシの負け犬だから」などと我々は心の中で叫びますし、人に対してこそこそ言ったりする方もいるでしょう。

 

しかし、冷静に考えてみると、自分の意見が聞きいられないことと「意見を聞かない人の頭髪の密度が薄い事」には何の関係もありません。

 

自分の意見が聞きいられないことと「意見を聞かない人の祖先が朝鮮半島から来た事」には何の関係もありません。

 

ある人が30歳コナシであることと「その人の発言」には何の関係もありません。

 

その人のマンコから赤ん坊が出てきたら、自動的にその人の発言の正確性が増すのでしょうか?

 

そんな因果関係があるはずがない。

 

ちょっと前に、タイ人の友人がいきがっていたら、「タイ人のクセに生意気だ」という人種差別丸出しの発言をしているとんでもない人もいましたが、「その人がむかつくこととその人が、インドシナ半島の中部で生まれたこと」には直接的な関係はありません。

 

我々は、チビとかデブとか在日とか小梨とか「その人の人柄」や「その人の発言」そのものではなく、何故かその人の属性を見下します。

 

なぜか?

 

私の暫定的な結論なんですが、いつも言ってるように、「定量的でわかりやすいもの」は評価をするにせよ見下すにせよ非常にクリアなわけです。(トートロジーですが)

 

「あいつの意見が論理的でないのは、●●で◯◯で」とケナすよりは、「あのデブ」、「あの在日」、「あの部落」、「飲食店の店員のくせに」と言うほうが、自分の中ですっきりするんでしょうね。笑

 

確かに私も心の中で「あの野郎、ハンバーガー屋のくせに」と職業差別丸出しで他人のことを心の中でケナしていましたが、やはりこの方がなんとなくクリアなんでしょうね。(いつも言っていますが、これは「心の声」ですから、まさか本人には言ってませんよ)

 

小学生の子供も「おい、メガネ」、「おい、チビ」と露骨に他の子どもを見下しますが、これもわかりやすいからでしょう。

 

われわれは、本質よりもわかりやすを優先してしまう浅はかなところが無意識にあるということです。

 

感情レベルでは仕方ないですが、この浅はかさについては自覚した方が良いでしょう。

 

自戒の念を込めて。

 

 

 

 

 

 

広告を非表示にする