HKの徒然草

辣腕会社経営者が、人間や社会について論じています。京都大学法学部在学中に起業し、現在は代官山アドレス在住です。特技は語学で英検1級。

標準語か東京弁か

私は半分東京で半分関西で育っているので、東京が大嫌いな関西人も関西を馬鹿にしてる東京人もあまり好きではないのですが、だいぶ昔「東京弁」という話で小さい小さい争いことが起きました。
「あんた東京弁やなあ」
「は? これ標準語じゃん。 何言ってんの?」
要するに、東京の若者言葉が東京弁なのか標準語なのかという話です。
私は政治学を専攻していましたから、差別やジェンダーなどについて敏感なクチですので、「標準」という言葉にはどうも違和感を感じてしまいます。
思想史に詳しい方であれば、デリダフーコーポストモダン思想、ウォーラーステインの世界システム論(中心と周辺)あたりを想起していただけばわかりますが、「何が標準か」というのは極めて恣意的です。
世界レベルで言えば、「たまたま」アングロサクソンが世界を席巻して英語がデファクトスタンダードになってしまいましたが、スワヒリ語も日本語も英語も、本来的には等しい価値があり、英語が「標準」語というのもおかしな話です。
私も人生で英語の勉強に1万時間は費やしたでしょうが、アメリカやイギリスの子供はこんなことをしなくていいと思うと、何とも言えない不条理を感じます。(が、仕方ない)

日本国内でも、徳川さんのおかげで「たまたま」東京が首都になっていますが、東京は「東の京都」と書きます。

京都の人間は、みやこ千年、京都こそが日本の中心だと思っています。

東京の言葉は「標準語」ではなく「共通語」と言うべきでしょう。(し、既にそういった表記もありますけど)

男性と女性。
西欧と非西欧。
健常者と身体障害者
同姓愛者と異性愛
東京とそれ以外。

「標準」と「非標準」が我々の無意識のレベルまで入り込んでいるというのが、デリダフーコーの視点なわけですね。

興味がある方は、解説本をご覧ください。

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因果関係の特定の難しさ

実は私は2週間ほど咳が止まらない状態だったのですが(というか今もちょっと咳が出る)、最初やばい状態でお医者さんに診てもらって、薬をもらいました。

 

しかし、全く改善する兆しがないので二度目に病院に行くのをやめてしまいました。

 

私も風邪で頭がイカレてるので、「薬なんて意味ないよ。結局は抵抗力やから、横になって早く寝よ」と正当化していましたが、今から考えると、続きの薬をもらいに行った方が早く改善したかもしれないなぁと後から後悔しております。

 

素人なりに「こういう可能性もあった」と分析してるのですが。

 

一週間では効果がなかったように見えたけれども、どこかに閾値があってそれに到達してないから全く効果がないように見えて実はやはり効果は長期的にはあったのかもしれない、とか。

 

もしくは、実は最初の状態が100で1週間でむしろ悪化して120になるところを薬のおかげで100のままにとどまれたのかもしれないし、そのまま続けていれば早く治ったのかもしれない、とか。

 

真相は絶対にわかりません。

 

これは遺伝子や生物系の研究にも当てはまる困難さですが、本来医学や生物学の研究は「比較したいところ以外の条件を完全に等しくしなければならない」という大原則があります。

 

小学校の理科でもやる「対照実験」というやつです。

 

比較したいところ以外の条件を完全に等しくしないと、何がどこに影響を与えるか分からないからです。

 

しかし、物理などの物質科学と違って、人間の体や生物などは複雑系で個別具体性がありますから、究極的には何がどこに影響与えているかを知る事は極めて難しい。

 

今だにゴホゴホ咳をしながら、こんなことを考えております。

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜ婚活女子は勘違いをしてしまうのか

ここ数日、社会学的な研究のためにデーティングアプリで婚活中の女性とコミュニケーションをとっていますが、「え? ほんまに言ってるん?」と首をかしげたくなるほどあーだこうだ条件をつけてきます。笑

なぜこうなってしまうのか?

婚活や恋愛は究極的な市場原理ですから、基本的には一般的に条件の良いもの同士がくっつきます。

(「やまとなでしこ」みたいな「いい話」は現実にはありません。笑)

しかし、自分を棚に上げて、もちろん男性でも「勘違い」してる人がいますが、女性の方が圧倒的に勘違いしやすいのです。

なぜならば、婚活市場の男性の価値はある程度定量的ですが、女性の評価は定量的ではないですから、「自分の市場価値」がなかなか把握されにくいからです。

男性は、人によっては小学生位から定量的な戦いにさらされています。

「この偏差値じゃぁ栄光学園に行けないよ」
「この成績じゃぁ阪大医学部に届かないよ」
「俺の大学じゃ5大商社は足切りだな」
「俺の年収だと港区タワマンは厳しいか」

もちろんこれが人生の全てのはずはありませんが、異性からの第一印象で定量的な部分が占める割合が高いので、基本的に勘違いをすることがないのです。

「身の程」がわかるといいましょうか。

しかし、女性は顔やスタイルという主観的な部分で評価されるので、なかなか自分の立ち位置が自分でわかりにくいのです。

人間は自分に甘いですから、主観的な自己評価はほぼ全て客観的な評価より低いと思ったほうがいいです。

私も鏡を見て「うん、目が2つあるし、鼻があるし、鼻には2つちゃんと穴がある。そして口も耳もあるよ!」と自画自賛していますが、他人からの評価は心もとないものです。

目が3つあるやつもいますからね。(いないか)

さらに女性がかわいそうな点が二つありますが、まず女性は若い時に圧倒的にモテます。

20代前半の女性は、全く自覚がないでしょうが、彼女たちがモテるのは「若さ」という「ボーナスポイント」があるがゆえであり、内在的な価値があるわけではありません。

この事実に「30代未婚」という立場になって初めて気づくのです。

平出 心 さんが、「恋愛やセックスは女性に決定権があるが、結婚の決定権は主に男性にある」と指摘されていましたが、全くその通りです。

このミスマッチが壮大な「勘違い」を生むわけです。

若い時に調子乗っていたちょっとかわいい女性も「楽勝でいい男と結婚できる」とタカをくくっていたでしょうが、アプリに大量に存在している「そこそこかわいい30代前半の未婚女子」を見ていると、やはり若いときの感覚が忘れられないからでしょう。

学業秀才で社会人としてポンコツのおじさまが高校大学トークで溜飲を下げるように。笑

人は現実を直視したくないので、過去の栄光が現在も続くと「思いたい」のです。

若い時に中途半端に条件が良い男性にモテてしまったから、目が肥えますので、余計に相手が見つからなくなります。

さらに理由の2つ目ですが、男性はセックスのために女性にあらゆる嘘を言います。

ゲッベルスの「嘘も100回言えば本当になる」ではないですが、「きれいだね」とそこそこ良い男性に言い寄られたら、自分の価値はそんなもんだと勘違いするわけです。

私はともかく、広告とか総合商社とかに勤めてる奴や医者歯医者などで遊びまくってる奴を見ると、本当に女の子が可哀想になります。

セックスのためにあらゆる嘘をついているからです。

ところで、「勘違い」が起きやすいのは不美人ではなく、むしろ「ちょっと可愛い子」です。

とびきり可愛いわけじゃないけど男性から見てまぁセックスしたい位の女性が一番悲劇的です。

なぜなら、自分は80点ぐらいだと思ってるわけですけど、客観的な評価は65点位だからです。

婚活アプリの研究は社会を分析する上で非常に示唆的ですね。

本の紹介

面白かった本の紹介ですけど。

 

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この本はなかなか面白かったです。
よく「豚は近眼だ」、「コウモリは○ヘルツ以上の音が聞こえる」、「○○は紫外線が見える」という表現を耳にします。

 

しかし、ある程度哲学をやってる人間から見ると、この表現は少し不気味です。

 

なぜならば、少し哲学的な言い回しをすると、

 

「人間が認識する世界においては、コウモリは○ヘルツ以上の音が聞こえる」とは言えても、「コウモリの認識する世界」は究極的には人間には100%わからない

からです。

 

カントの「物自体」の例の話と一緒ですが。

人間は「認識できる範囲」の世界を認識していますが、それが「物自体」と異なるのは言うまでもありません。

田畑淳弁護士の言葉を借りますが、「2次元の紙人間」が「3次元の世界」をイメージすることすらできないように、我々はコウモリや豚の認識する世界を想像することはできてもイメージすることができません。

われわれは認識論のレベルで言えば、特に他の動物より超越的な地位にいるわけではなく、ただ単に「ホモサピエンスワールド」の桎梏の中で生きています。

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選択の自由のパラドックス

社会学的な実験のためにデーティングアプリで未婚の女性とマッチングしています。

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こういったデーティングアプリは最近流行ってるようです。

 

たしかに、身近に出会えなかった人と出会えるというのは確かに長所ですが、こういったアプリも良し悪しです。

人類の歴史は「自由を求める歴史」だと政治学や法学の教科書には書いてあります。

たしかに、憲法で言う「人身の自由」の類は絶対的な自由と言えます。

牢屋にぶち込まれて気持ちいい人間など、加藤みたいなドMを除き、ほとんどいないでしょう。

北朝鮮強制収容所のいる人間が「自由じゃない」のは誰がどう見ても明らかです。

それに対して、「意思決定の自由」というのはなかなかのパラドックスにさらされています。

ミルトン・フリードマンも「選択の自由」と言いますが、実は、選択肢というのは多すぎても少なすぎても困るのです。

なぜ都会の独身率が高いかと言えば、「いろいろな選択肢が目に入ってしまうから」です。

特に女性から見て男性は、都会ですと収入とか条件的な部分で判断してる場合が多いので
、「すごく条件が良い人」が視界に入るのは害悪でもあります。

実際、選択できるかどうかはともかく、見かけ上の選択肢の数が飛躍的に多くなるからです。

コンビニでもキヨスクでも我々が購買に困らないのは、選択肢があらかじめ絞られているからです。

「コーラやお菓子を5万種から選べ」と言われたらそれはそれで困ります。

紀伊国屋などに行くとあまりにも書籍のラインナップが揃えられすぎているので、逆に中規模の書店を好む人がいますが、それもあえて「自己決定の範囲を限定したほうが自由になる」という「自由のパラドックス」の具体例です。

私の友人でも、「進路は弁護士か官僚か民間」と言ってるやつがいましたが、世の中は広いので、本当は様々な職業があります。

しかし、最初からそれぐらいに絞った方が頭を使わなくて楽だったりします。

本当は起業して「ラーメン屋のチェーンを開くこと」の才能があったのかもしれませんが、選択肢にないものは存在していないのと一緒です。

余計な選択肢は存在していないほうが楽なのです。

最近ではアマゾンなどにレコメンデーション機能がありますが、この機能を見るたびに、「奴隷の幸福」という言葉を想起します。

選択の余地などないほうがかえって幸せかもしれないという話です。

(これは自由と幸福という論点ですが、ここでそこには言及しません)

人間の「自由」はたぶんに主観的です。

われわれは鳥のように空が飛べないことに「不自由」を感じませんが、手が届きそうで届かないものが手に入らないと強く「不自由」を感じます。

鳥のように空を飛べることは、選択の余地がないほど不可能だからこそ、われわれは不自由を感じませんが、もうちょっとで飲めそうなワインが飲めないのには強く不自由感を感じます。

経済学で「スノッブ効果」という言葉がありますが、人間は「全く手に入らないもの」も「余裕で手に入るもの」も興味がなく、「手に入りそうで入らないもの」が一番欲しいのですけど、皮肉なことにそれが手に入らないのが一番「不自由」なのです。

やはり、「選択できそうでできない」からこその不自由感なわけです。

「選択の自由」の難しさについて考えてしまいますね。

受験や教育のジレンマについて

孔子も言ってるように、「人から教えてもらう」のと「自分で考える」は究極的にはバランスであり、ただ単に人から教えてもらってばっかりというのも問題ですし、独りよがりに考えるのも問題です。

私が日本の学校教育が問題だと思うのは、短期的に得点を上げるためには「解法パターンを理解して暗記する」のが最も効率が良い勉強だからです。

もちろん分野や科目にもよります。

英単語などは本当に覚えるしかありません。

しかし、数学や国語などで「こういう問題はこうやって解く」的なパターン演習をしても何も根本的な能力は上がりません。

もちろん最低限の「思考パターン」の暗記は不可欠なのはわかります。

サイン・コサインなどを本当にゼロからきっちりと理解するのは現実的ではないです。

しかし、日本の学校教育というか大学入試の問題は「パターン演習」が非常に「ハマる」だけに、短期的に合格することを考えるとそれが一番効率の良い学習になります。

語学などはそれでもいいと思いますが、物理や数学でそういった学習をしても、将来のために百害あって一理なしです。

「パターンでは受からない」などというのは、頭の悪い予備校講師の言い分です。

相対競争である以上、私が知る限り、ひたすら青チャートなどの定評ある参考書を覚えて吐き出してるだけで、最難関大学にギリギリ受かってる人は山ほどいます。

鉄緑会という非常に著名な塾がありますが、「受かる」ためには鉄緑会は有効でしょうけど、鉄緑会出身者がノーベル賞フィールズ賞を取れるのか?と言われたら本当に心もとない。

SEGというマニアな塾の大阪校で私は教えていましたが、SEGは鉄緑会と全く間逆の発想をします。

「本質から正しい理解をすればどんな問題も解ける」という考え方をとっているので、パターン暗記などしないため、SEGはすごくできる人には評判が良い塾です。

しかし、SEGより鉄緑会のように大量に練習してパタンを暗記させる塾の方が「受かる」のです。

現実に一番受かっているのは鉄緑会です。

本を読んで自分で頭を使って考えることもなく、ひたすら「参考書」を理解して暗記する勉強をして、そんなんで大学生や社会人になって伸びるでしょうか?

やはり教育は長いスパンで考える必要があります。

こんなことをとりとめなく考えてます。

中高生の子供の教育と幸せな人生について

※以下は「エッセイ」であり、「結論」はありません。

 

それはご了承下さい。

 

 

中高生の息子をお持ちの方から「息子をどのような進路に進むませればいいでしょうか? 留学させたほうが良いでしょうか?」という相談を受けたのですが、私自身高校生の子供などはいないのであくまでも傍観者的で無責任な立場から意見を言わせてもらいます。

 

私はいつも「幸せな人生」についてあーだこーだ言っておりますが、その話にもいくつかの階層(レイヤー)があり、哲学的に達観してるところから述べてみたり、極めて現実的なお話をしてみたり、それらが相互に矛盾してるようで矛盾していなかったりなかなか複雑な様相を呈しております。

 

一見矛盾することを言っているのも、居直りますけど、当たり前と言えば当たり前です。笑

 

およそ価値判断をする際に、「こっちがいいかな、でもやっぱりあっちかな」という迷いは人間である以上不可欠だからです。

 

私も昔から、「人の目を気にせずにできるだけ自分の好きなことをやりたい」と思ってきましたが、その一方で「人から認められたい、褒められたい。勝ちたい」という抗えない感情もあります。(ちなみに哲学的には完全なる「自由意志」は存在しないのですが)

 

完全に俗的で世間の価値観を100%受け入れるタイプであれば、何も人生に迷いはないわけです。

 

「本当の支配者」にはなれませんが、有名高校から有名大学に進学し、商社マンや医者等になれば「世間的には」間違いなく100%勝ち組です。

 

法学部なら弁護士か官僚がやはりメインストリームでしょう。

 

しかし、私はそういった「普通に良い人生」をそこそこ渇望しながらも、心のどこかで「そんな人生つまらないだろう」と思っています。

 

これは根源的に二律背反なだけに、常に葛藤を抱えています。

 

とは言え、「いい学校行って、いい会社行って、朝から晩まで必死に働いて年収1000万円」なんて全然いい生活なんてできないしつまらない人生だなぁというのもなかなか「贅沢」でかつ「私だから言える」話でもあります。

 

私は8年ほど前に代官山に引っ越してきて、それまであまり接することがなかったアパレル、飲食業や美容師の方と知り合うようになりました。

 

そこで思ったのは、やはり彼らは社会的にはものすごく低いレイヤーにいて、朝から晩まで働いて年収300万もない方が大半です。

 

「給料は社会への貢献」なんてちゃんちゃらおかしいのです。

 

ただ単にデフォルトの給料が高いか安いか、そしてその地位にありつけるだけの頭があるかどうか、本当にそれだけです。

 

農業や食品メーカー、飲食業などは、どう考えてもものすごく社会に貢献していますが、給料は非常に安いですけど、これは「社会の構造上そうなってる」としか言いようがありません。

 

代官山の美容師や飲食業の方にはもちろん人間的に面白い方もたくさんいるので仲が良いのですが、やはり彼らを見ていて学がないと本当に苦労することがわかりました。

 

ただ、飲食業のホールの方とかは別として、美容師は比較的好きでやってる方が多いので、価値観としては示唆的なところもあります。

 

嫌々働いているサラリーマンと人を美しくして幸せにする美容師、はたしてどちらが幸せだろうか?などとも考えます。

 

しかし、独身ならまだしも家族を持ったら、やはりそんなきれい事は言えません。

 

私自身も「結論」は出ていないですが、いろいろなことを考えてしまいます。

 

ところで、この話と関係ないようで関係してくる話ですが、やはり現代社会で子供の悩みと言えば「勉強」でしょう。

 

それはやはり、上と重複しますが、勉強ができることが現代社会で稼ぐのに圧倒的に有利だからです。

 

これは綺麗事抜きに間違いないです。

 

私が精神的に優位でいられるのは、間違いなく学力が高い(高かった)からです。

 

投資で稼ぐというのは、簡単に聞こえるかもしれませんが圧倒的に頭がいります。

 

文系の微分積分位で挫折してるような方はまず勝算はないでしょう。

 

代官山の比較的ブルーカラーと言われる人はほとんどが高卒ですが、やはり高卒や二流大学の方の稼ぎはよほど才能ある人を除いて悲劇的です。

 

なかなか今の社会で幸福になるのは袋小路のような難しさがあります。

 

子供を勉強させないで、自由奔放にのびのびと育てたところで、よほど資産があるとかではない限り、困るのは子供です。

 

女の子で容姿淡麗であれば、玉の輿という手もありますが、これは非常にリスキーな選択肢ですからあくまでも「奥の手」です。

 

一方で、子供の頃から勉強して中高一貫から東大や早慶・医学部に進んだところで、月の手取りなどせいぜい50万くらいです。

 

先ほど取り上げた代官山のアパレルで働いてる方が「手取り50万」になったらそれはそれは嬉しいでしょう。

 

しかし、人間は「身近な他者」と比べます。

 

私もやはり無意識に京大法学部の卒業生の平均が基準になります。

 

私の学部の友人は関西にとどまっているやつが多いのですが、東京の友達は東京の友達で東大卒や慶応卒、弁護士や商社マンとかばかりです。

 

そうなると、無意識のレベルで彼らと比較する以上、港区や渋谷区のタワマンに住んでも「みんなよりちょっといいほうかな」という程度です。

 

そこそこいい大学に行って専門商社に就職したような方は、結婚したら東京に住めるか住めないかというレベルでしょう。

 

問題はこういった方の幸福感です。

 

おそらく高卒でアパレルに勤めている方の「月収手取り20万」と「専門商社で、手取り35万、埼玉在住」だと幸福度としてはどちらが高いかわかりません。

 

中途半端にレベルの高い組織にいると、「ハイレベル」がデフォルトになり、デフォルトより自分が低いと主観的な幸福度はものすごく低いと思います。

 

中学受験などで良い学校に行きすぎるのも良し悪しだと思うのは、灘や開成に行けば、東大か国立医学部がデフォルトであり、灘や開成から早稲田や慶応にいった人の主観的な幸福度の低さは当事者じゃないとわからないと思います。

 

私は現役受験で失敗してるので、こういった方の気持ちは凄くよくわかります。

 

結局人は「自分のコミュニティのデフォルト」と無意識の比較をするので、どこまでいっても人と比較をしている限り幸せにはなれません。

 

しかし、禅問答のように帰ってきますが、じゃあ「アパレルや飲食店で手取り20万」の人生が本当に良いのか?

 

自分が本当に幸福感を感じられれば全く問題ないと思いますが、それらのクラスターで毎日すごく幸せだという人はものすごく割合としては低いのではないでしょうか?

 

このように他者基準で考えている限り、特に東京で幸せになるのはなかなかの「無理ゲー」です。

 

上には必ず上がいて、そして「自分のステージ」が上がる限り、どこまでいっても「完全な勝利」は原理的に不可能だからです。

 

だからこそ、そのソリューションとして、「好きなことをやろう」(仕事でもプライベートでも)という考えを私は持っていますが、人間は社会的な動物ですから、本当に人の目を気にしないで好きなことをやるのもそれはそれで一苦労です。

 

生まれ持った性格も起因してくるでしょう。

 

少なくとも私はそれはやはりできないので、「好きなことをやりつつそこそこ恥ずかしくないような生活をする」という折衷策をとっております。

 

まとまりのない記事でしたが、評論文ではなくエッセイとして読んでいただければ幸いです。笑