港区社長シュナイダーが人間・社会・教育について論じているブログ

管理人略歴 会社経営者/法学士(京都大学)/港区タワマン在住/英検1級/元Z会マスターコース講師

福沢諭吉の思想と幸福について

先程の続きです。

 

私の敬愛する福沢諭吉先生は、『学問のすすめ』で「天は人の上に人を作らない、人の下に人を作らない。

BUT

努力して学ぶものと学ばないものにより、とてつもない格差が生まれるのだ」といった趣旨のことを言いました。

 

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これはこれで私の人生のモットーでもありますが、このような発想は、残念ながら社会の多数派の人間を不幸にするものでもあります。

 

「努力すれば幸せになれる」

 

これだけ言えば悪い話ではないようですが、これを裏から言えば、

 

「努力できない人間は幸せになれない」

 

ということになります。

 

しかし、『遺伝子の不都合な真実』に代表されるように、最近ではあらゆる能力がかなりの程度遺伝であるという不都合な真実が明らかになってきました。

 

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つまり、有り体に言えば、だめなやつは生まれつきダメということです。

 

今の日本人(特に都会の人)が不幸なのは 、本当はあらゆることが才能で決まっていて、チャンスなんてほとんどの人にはないのに、「努力すれば夢は叶う」と欲望を刺激されているからだと思っています。

 

本当は「努力できること自体が才能」なわけです。

 

福沢諭吉は下級武士の子供ですから、「門閥制度は親の仇でござる」と言いたい気持ちは分かります。

 

しかし、福沢諭吉や「実家が貧乏で家柄は恵まれていないけど、たまたま能力があることによって成功した人」は、「家柄の不平等」にはすごく関心がありますが、「能力の不平等」には無頓着な傾向があります。

 

これも言うならばポジショントークです。

 

本当は家柄が良いのも生まれ持って能力が高いのも同じ位「幸運」なわけですが、こういったタイプの人間は、「家柄の不平等」を過剰に強調して、生まれ持った能力の不平等についてはあまり言及しないものです。

 

この人なんかもそうです。

 

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「自分がいかに貧乏なところから能力一つで成り上がったか」を自伝のように述べていますが、私は少し不愉快になってしまいます。

 

「どんな人でも自分の運命は自分で切り開けることを私は証明したかった」と言っていますが、それをエチオピアで言えるのか、それを先天的な能力が明らかに恵まれてない人に言えるのか、と私は感じてしまいます。

 

こういった人は、努力できることや信念が異常に強いという意味で、やはり「才能の塊」です。

 

なぜ私がこういった思想が嫌いかと言えば、それはほとんどの人を不幸にするからです。

 

「やれば誰でもできる」を強調すれば強調するほど、「自己責任」という色が強くなります。

 

私が低所得や低学歴を馬鹿にしてると思ってる人もいるかもしれませんが、思想レベルで言えば、お金が稼げることも頭が良いこともかなりの程度は「遺伝」や「運」で決まっています。

 

それぐらいは分かっています。

 

なぜ努力を強調することが間違いかといえば、繰り返しますが、「努力すれば誰でも絶対できる」の裏返しは「失敗したのは努力しなかったからだ」になるからです。

 

人は思い描いたことができないと欲求不満を感じます。

 

我々は鳥が空を飛べるように空を飛ぶことができないことに欲求不満を感じませんが、「やればできる」と信じていることができないと非常に辛くなります。

 

私が予備校の仕事を本気でなりわいにしたくなかったのも、このことと関係があるでしょう。

 

「やればできる」と信じ込まされて、夢を持って、でもほとんどの人は夢が破れるわけです。

 

そしてそれは「努力しなかったから」となります。

 

でももう、「本当のこと」が自然科学のレベルでわかってきた訳ですから、あまり自分の人生を嘆く必要もありません。

 

できないのは運が悪いだけ。

 

すべては運命で決まっていると思ったほうが気楽でしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕が信用しない人

そもそも私は交友関係が薄い人ですけど、私が絶対に信用しない人間というのがいましてね。

 

「これ絶対に喋っちゃだめですけど」、「あなただから教えてあげる話ですけど」と言う人は200%信用できない人ですね。

 

「あなただから教えてあげる内緒話」を言われたら、自分は特別だと勘違いする人もいるかもしれませんけど、私は基本的に人を信用していないので、むしろこういうことを言う人は自分のいないところでは全く逆のことを言ってるんだろうと思います。

 

それと似た話ですけど、人の悪口を言う人間も信用できません。

 

私も人のことを結構悪く言う人間なんですけど、私は自分が嫌いとかうざいとか思った人に関して、私はそもそも表面的に仲良くしたりしないですから。

 

私が信用できないと思うのは、自分にとって利用価値があるからある人と表面的には仲良くしていて、それで影ではその人の悪口を言うというパターンですね。

 

結構いますよね。

 

「あなたには教える」とか表面的に仲良くしてる人の悪口を言うような人は、全然信用できませんな。

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「踊らされるな、自ら踊れ」

「資本主義と欲望」というポストの続きですが。

 

「踊らされるな、自ら踊れ」という言葉がありますが、都会の金持ちを見ていると、ほとんどの人が踊っているのではなく踊らされています。

 

「いまの日本社会」を宇宙や人類の歴史、資本主義という経済体制といったマクロな視点から俯瞰すれば、我々の欲望も所詮「作られた」ものであり、俗世間の価値というのも相対的なものでしかありません。

 

我々の社会では、富裕層というだけで何故か尊敬され、お金を使うと礼賛されますが、これはまさに資本主義に踊らされているわけです。

 

私がどうしても滑稽だと思うのは、踊らされていることに気づいていない富裕層です。

 

本当は資本主義という悪魔に踊らされているだけですが、自分は踊っていると思っています。

 

別に俗世間の価値に従うことが悪いわけではないのです。

 

港区のタワマンに住みたい、商社に入りたい、商社マンと結婚したい。

 

こういった俗的な欲望が間違ってるわけではなく、「踊らされているわけではなく、踊らされている価値観の奴に馬鹿にされないための処世術として自分はこれらが欲しいだけ」と達観したところから自分を眺めることが大切なのです。

 

エルメスやロレックスみたいな高級品を「心から欲しい」と思ってる人は、完全に資本主義に踊らされてるわけです。

 

そんなものは全て社会が「これには価値がある」と決めたから価値があるだけで、アフリカの土人からしてみたら何の価値もありません。

 

まずこの事実を自覚することが大切です。

 

俗的に偉い人や金持ちの9割位は、ピエロです。

 

踊らされていることに気づいていないピエロなわけです。

 

この構造に自覚的になった上で、俗世間の価値にのっかからないと、私はどうしても情けないと思ってしまいます。

 

まぁこれ自体が壮大なマウンティングと言えなくもないですが。笑

 

 

 

 

日本人の法意識

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『日本人の法意識』という不朽の名著がありますが、やはり日本人にとって裁判や法というのは、「遠い世界」の話です。

 

いま私は、とある訴訟の原告なんですが、「裁判中」というのはそれだけで不名誉なことです。

 

こちらは原告ですから、権利を主張する側であり、何も後ろめたいことはありませんが、やはり「裁判沙汰」というのはなんとなく騒々しいもの。

 

川島先生の著書にもありますように、日本の近代化は「上からの近代化」ですから、どうしても「権利」という意識が希薄です。

 

欧米の市民革命のように、「自分たちで権利を勝ち取った」わけではないので、人権や権利というものに対してそこまでありがたみがないのでしょう。

 

10年ほど前に鳴り物入り法科大学院が開設されましたが、関係者の予測とは裏腹に、裁判の件数等が飛躍的に伸びる事はありませんでした。

 

「法律家が多くなってもその分事件も増えるから、合格者を増やしても問題がない」と言われていましたが、その後の惨状は目に余るものがあります。

 

やはり、日本人は端的に裁判沙汰や法律が好きではないのです。

 

ここの読みが、司法制度改革の旗手であるの佐藤先生あたりの大きな間違いでした。

 

『日本人の法意識』を再読してみると、川島先生の慧眼が身に沁みます。

 

 

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日本人の情けない国民性について

小室さんの一件で、急遽窮地に立たされている文春ですが、考えてみるとおかしな話です。

 

ゲスやベッキーなどであれだけ面白がっていたのは誰でしょう?

 

我々じゃないですか。

 

それがベッキーならダメで、天才的なプロデューサーである小室さんならアリというのは、あまりにも恣意的です。

 

太平洋戦争の時も、国民の多数派は圧倒的に「いけ、いけ!」というムードだったらしいですよ。

 

いかにも「罪のない国民が戦争の犠牲になり」云々という美談になりがちですが、国民のマジョリティーは主戦論でしたから。

 

それがうまく行かなくなった途端に「被害者面」です。

 

これはあまりにも風見鶏ではないでしょうか。

 

天才的な政治学者である丸山眞男さんが「無責任の体系」という有名な表現を残しましたが、日本人は、(もちろん私も含めてですけど)どうも「主体的な判断」というのがありません。(まぁ、諸外国の人間がそこまで主体的なのかどうかもわかりませんけど)

 

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そして風向きが悪くなったら、今度は真逆なことを言い出す。

 

あまりにも一貫性がなさすぎます。

 

私のこのブログで日本人の国民性が変わるはずがありませんが、せめて「風見鶏であることの情けなさ」は我々一人一人が自覚しないといけませんね。

 

 

 

差別されて初めてわかる話

「世界大戦」という言葉がありますが、考えてみるとものすごく傲慢な表現です。

 

ヨーロッパが舞台なのに、「世界」大戦なわけですから。

 

アメリカの野球チームのナンバーワンを決める試合が「ワールドシリーズ」なのと一緒です。

 

白人から見るとそもそも黄色人種は「人間」ではないのです。

 

ですから、そもそも黄色人種は「自分たちのカテゴリーとは違う」という前提で話しています。

 

それはちょうど我々が犬や猫に人権を認めていないように。

 

世界中の選挙権の歴史を見ても、女性が排除されている方が普通ですが、これも結局無意識のレベルで、人間=男性だからです。

 

「人間=man」ですからね、英語では。

 

私もその昔、英語の授業で「Men are equal」が「人間は平等だ」となることにえらくびっくりしました。

 

「男は」ではなく「人間は」となるからです。

 

こういった無意識の差別や排除を酷いと思う人はいっぱいいると思いますが、誰だって西洋人のような発想をしています。

 

私もあなたも当たり前のように牛肉や豚肉を食べてるでしょうが、これについて何の疑問も感じないでしょう?

 

人を殺したらエライことなのに、牛や豚を殺したことについては何とも思わないわけです。

 

急いで牛丼を食べている時などは、あくまでも「牛丼」を食べているわけで、生きている牛が屠殺されているという事実すら忘れてしまいます。

 

「牛さん豚さん、命をありがとう、いただきます」と毎回の食事で感謝をしている人間がどれだけいるでしょうか?

 

我々からしてみたら、「なぜ西欧人だけが人間なんだ?」と憤りを感じるかもしれませんが、そんな我々も牛や豚を「同じ動物」だとは思っていません。

 

だから、何の疑問もなく食べてるわけですから。

 

生命に価値序列をつけてるという意味では、西洋人の男性も差別されている東洋人や女性も「同じ穴のムジナ」です。

 

私があまり好きでは無い はあちゅう さんが、ちょっといいことを言っていましたが、スクールカーストで「下から上」は見えるけれど、「上から下」は見えないのです。

 

私のように、上の中から上の下ぐらいのところにいると非常にスクールカーストはよくよく見えますがww、確かにサッカー部のキャプテンからはスクールカーストの下は見えません。

 

下から上に向けて羨望の眼差しで見られていることに自分は気づいていません。

 

私は自分を客観視する能力がやたら高い上に、上の中下くらいの微妙なポジションにいたので、「ああ、山田や佐藤のようなオタクキャラは、サッカー部やバスケ部のイケてるグループと一緒にランチとかしたいんだろうなぁ。こっちに来たいんだろうなぁ。」と妙に人の心理がわかってしまいますが、サッカー部やバスケ部で中心の人は、自分たちが礼賛されてるという感覚がないでしょう。

 

差別や排除というのは、自分がしているときには気づかず、自分がされた時に初めて気づくのです。

 

差別や排除された時に初めて、「それは差別だ!」と文句を言うのではなく、普段自分が差別や排除をしている側であることも認識しないといけません。

 

誰だって弱い立場になり得るわけですから。

 

 

 

資本主義と欲望について

私が人生で多大な影響を受けた本が100冊あるとしたらその中に確実に入るであろう本がこの2冊です。

 

https://www.amazon.co.jp/「欲望」と資本主義-終りなき拡張の論理-講談社現代新書-佐伯-啓思/dp/4061491504

 

https://books.google.co.jp/books/about/不自由_論.html?id=ysDmPQAACAAJ&source=kp_cover&sa=X&redir_esc=y

 

両方の本に共通しているメッセージですが、われわれは自分が思っているほど自由ではないということです。

 

確かに、お腹が減ったから何かを食べようと思って手を伸ばすときに、それは自由意志で動いていると言えます。

 

排泄や生殖といった性的な機能に関してもそうです。

 

カントや自然科学のレベルで考えていくと、これらも自由意志と呼べるかどうかきわどいところですが、ここではそこまでアカデミックなレベルで突っ込む事はせずに、もうちょっとソフトなお話を。

 

ここで具体例に挙げたような極めてプリミティブな欲望はそれ自体が極めて自然なものです。

 

我々先進国の人間もアフリカの土人も、「ウンコがしたい」、「射精したい」というレベルの欲望は一緒です。

 

しかし、食欲や性欲、排泄といった最低限の欲望が満たされると、そこから先の我々の欲望はどこまでいっても社会の中で生まれてくる社会性のある欲望でしかありません。

 

私がことあるごとに「社会」、「社会」と語るのは、人間の欲望や思考のほとんどの部分は、社会によって作り出されたものだという強い信念があるからです。

 

普通の人が考えてる以上に、我々の欲望は社会に規定されています。

 

私が幼少期にサッカーや野球をやっていたのも、つまるところ日本に生まれたからであり、アメリカに生まれていたらアメフトやバスケットボールをやっていたかもしれません。

 

私は読書や勉強が好きですが、それですら結局、社会がそれを評価してるからこそ私は無意識のレベルで読書や勉強が好きだと思うのです。

 

我々が、自分の自由意志で選んでいると思っているものの大半は、社会によって作り上げられた欲望です。

 

女性がエルメスが欲しいのも、外資金融の男性と結婚したいのも、つまるところ社会によってそれらが価値があるものだと信じ込まされているからです。

 

佐伯先生の本には、このことが具体例を交えて詳細に述べられています。

 

私は、今の東京人の大半が不幸に見えて仕方ないのですが、それは自由意志と欲望のメカニズムが手に取るようにわかってしまうからです。

 

東京に限ったことじゃありませんが、先進国の都会では「これでもか」という位に欲望を刺激されます。

 

高価な洋服やバック

高級なレストラン

高級な車

有名なタワーマンション

 

こういったものが、「すごく価値のあるもの」かのように吹聴されます。

 

しかし、レストランはともかく、高級車やタワーマンションも、ブランドのバックも、所詮社会によって価値があると思い込まされているものです。

 

食べ物に価値があり、自転車に移動手段としての価値があるようなレベルで、内在的な価値があるわけではありません。

 

あくまでも共同幻想としてみんなが価値があると思っているからそれらに価値が与えられているだけなのです。

 

この前提を理解すると、俗世間のくだらない価値観から100%ではないにせよかなり自由になります。

 

自分が「欲しい」と思っているものは、厳密には「欲しい」のではなく、「欲しいと思い込まされている」だけです。

 

ベッドの上で女性がチンポが欲しいのは、本能に基づいた極めて正当な欲求ですが、「チンポが欲しい」のと、「エルメスが欲しい」は欲求の階層レベルが違うのです。

 

エルメスが欲しいとかタワーマンションに住みたいというのは、あくまでもそれが価値があるものだと社会に思い込まされているだけです。

 

実は、充足できなくてもたいして困るものではないと理解できるでしょう。

 

私が商業資本主義がキモイと思うのは、あらゆる広告がそうですが、ほとんどの商品は必要がないのに必要だと大衆の欲望を煽り、お金を使わせるシステムが出来上がっているからです。

 

タワマンいいよお?

子供をいつ私立に入れるの?  いまでしょ!

白いワンピースで合コンでステータスのある男性に気に入られましょう!

あなたもモテるために永久脱毛しないと!

英会話ができたらかっこよくない?

 

ほとんどの欲望は社会によって作り出された欲望であり、別に本当はたいして必要がないものなんですが、広告代理店という資本主義の申し子は、それがさもなくては困る必需品かのように大衆の嫉妬心と不安感を煽ります。

 

まだ仮想通貨やってないの?

港区に住みなよ!

 

こんな感じですよね。

 

しかし、そうは言っても高度に発達した資本主義というのはこのように大衆の不必要な欲望を刺激しないと回らないようにできています。

 

だって本当に必要なものなんて誰もがみんな持ってるわけですから。

 

食べ物も洋服もトイレットペーパーもお皿も椅子も机もあるわけですよ。

 

実は我々は「本当に必要なもの」なんてほとんどないんです。

 

その最低限の欲望を満たして「足るを知」ればいいわけですが、われわれ人間はエゴの塊なので、どこまでいっても他者との相対評価による優越感を感じたいのです。

 

こうやって欲望を刺激し続けられ、「まだ持ってないの?」という社会からの脅迫に翻弄されて不幸になっているというのが、東京の大半の人間の現状でしょう。

 

子供だって「任天堂スイッチまだ持ってないの?」となるわけですが、テレビゲームなど昭和の子供は持っていなかったわけで、これも所詮社会が作り出した欲望にしか過ぎません。

 

テレビゲームがないならないで昭和の子供たちは、缶蹴りや鬼ごっこなどで幸せに遊んでいました。

 

欲望が無理矢理作り出されているから、欠乏感によって不幸になるわけです。

 

これは歴史的な必然であり、著名な学者が束になってかかっても今現在解決できていないわけですから、私がこのブログで解決策めいたものを指摘すること自体がおこがましいと思うので、ここでは問題点の指摘だけに留めておきますが、少なくても事実としては現状はそうなっているということです。

 

佐伯先生の本やボードリヤールの本は本当に示唆的ですね。