代官山社長・ハヤトの徒然草

自称有能な会社経営者が、人間や社会について論じています。京都大学法学部在学中に起業し、現在は代官山アドレス在住です。特技は語学で英検1級。元Z会マスターコース講師ですから、教育や受験の役に立つ情報も提供します。

一度落ちたら這い上がれない

最近社会について論じている関係で、飲食業界の広告がよくスマートフォンに出てきます。笑

 

こういった広告を見て思ってしまう素直な感情ですが、「飲食業界の時点でそんなにいい仕事があるはずがないじゃないか」と私は結論づけました。

 

f:id:HK2125:20171120225606p:image

 

年収600万?

週休2日

 

そんなにおいしい仕事が飲食業界であるはずがありません。

 

そもそも「社会のじゃんけん」に負けたから配送員なり飲食店の店員をやってるわけですから、市場原理を考えたら明らかなように、そもそも飲食業界にいる時点で一生這い上がれません。

 

ここ数日にわたって、「社会はゼロサムゲームだから、飲食店の店員や配送員がいてくれないと困る」と話してきましたが、これは社会全体の話であり、個人レベルで言えるのは、

 

子供を都会の飲食店や運送会社などで働く立場に絶対してはいけない

 

という身もふたもない事実です。

 

私は個人としてはもちろん飲食店には感謝してますし、農家や漁業の人にも感謝はしていますが、それと「自分や自分の子供をその仕事につかせるか」は全く別の問題です。

 

我々の社会は市場原理に基づいていますから、特別な能力がなくて飲食業界や運送業界で働いている限り、一生給料が上がるはずがありません。

 

そもそも特別な能力がないから給料が安いわけですから、転職したところで何も変わることがないことくらい理解しないといけませんが、そもそも学がないがゆえにこの社会の仕組みに気づいていないのでしょう。

 

私は別のポストで「幼少期から勉強して、年収1000万円になったって周りのデフォルトも上がるし、たいしていい生活なんてできませんし、幸福感もそこまでじゃありません。教育投資は人によっては微妙です。」とも申し上げていますが、究極の選択で、飲食業界や運送業界で働くよりは総合商社や広告代理店で働く方が100倍マシでしょう。(世間の人が思っているほどバラ色ではない、というだけで)

 

一度ブルーワーカーになってしまった瞬間に特に男性に関しては一生這い上がれないと覚悟するしかありません。

 

はてなのブログなので、もはやそういったブルワーカーの方がほとんど見ていないという前提で書いていますが、別にブルワーカーのことを馬鹿にしてるとかそういう趣旨で言ってるわけではないのです。

 

ただ、冷静に社会を分析したらこのような結論になると判断してるだけです。

 

世界にはたくさんのブルーワーカーがいてくれないと私も困りますが、自分の子供や親戚などの身近な人間に関しては、絶対にブルワーカーになってはいけないと強く思います。

 

私も私の身近な周りの友人も、そもそも遺伝や環境に恵まれている人間で教育投資をされているがゆえに稼いでいるタイプですから、個人として自分が偉いと勘違いしてしまってはいけないのですけど、いかんせん人生の早い段階で能力を身に付けないと、本当に人生がアリ地獄なのです。

 

飲食店や運送業に入ってしまうと、「お金も時間もない」という最悪のシチュエーションになります。

 

そもそも今稼いでる人間は何故に稼げるかといえば、基本的には知識や情報を持っているから稼げるわけです。

 

そしてその源はつまるところ勉強です。

 

小さい時からそれなりに勉強しているからこそ知恵なり知識なりが身に付き、結果として学歴が手に入り、稼げるというサイクルになっています。(ちなみに、私は子供のタイプや生き方によっては、都会で小さい時から勉強する人生が必ずしも良いとは思いませんが、ブルーワーカーとの比較で言えばだいぶマシでしょう)

 

しかし、一度飲食店の店員や配送員になってしまったら、お金も時間もないので自己投資する余裕もないですから、本当に人生アリ地獄です、

 

人生は「大貧民」ゲームに似ています。

 

人生の前半で良いサイクルに乗らないと、終始後手後手に回ります。

 

人生自体が自転車操業のようになります。

 

私は、あまり現世利益のために教育投資をしたり勉強させたりするのをいいものだと思っていませんが、それはかなりハイレベルでぜいたくな願望であり、ブルーワーカーのような社会の最底辺でさまよっている人から見ると、とりあえず普通にそこそこ稼げる事は悪いことではないような気もします。

 

「視点」をどこにフォーカスさせるかによって私の主張も我ながら微妙に矛盾してる(過去の投稿と一貫していない)気もしますが、社会全体をマクロに考えたときに、やはり教育投資によって人生の前半を有利に進めて、稼げるホワイトカラーになることが「中程度の幸せ」を手に入れる上で非常に大切だとここ数日考えております。

 

ちょっとこの投稿と矛盾することを言ってる時は、ホワイトカラーの内部の世界にフォーカスを当てている時です。

 

もちろんホワイトカラーの内部で相対評価に破れたりする辛さもあるわけですが、ヤマトの配送員とかタクシー運転手やコンビニの店員とかその辺と比べると、それなりの大学を出てスーツを着て仕事をしている時点でやはり社会的にはかなりマシな方なんだなと思います。

 

しかし、私がなかなか悪魔的な心を持っているのは、ここまでクリアな分析をしているわりに、別にブルーカラーの人を助けたいなどとは微塵も思っていないところです。

 

ここ数日論じてる事ですが、だって彼らがいるから私(や皆さんも)は、トイレ掃除をしたり、警備員をしたり、タクシー運転手をしたり、配送員をやることなく、彼らのサービスを不当に安い対価で受け取ることができるからです。

 

こういったブルーカラーの方の賃金が月40万円とかになってしまったらそれはそれで社会としては困るわけです。

 

彼らが社会の最底辺で月20万円でアリのように働いてくれるからこそ、ホワイトカラーの優位性が出てくるわけですから。

 

冷たいようですけど、社会はゼロサムゲームだと私はわかっているので、私は、自分と自分の家族や友達以外の人に対して、野生のジャングル並の冷徹な心を持って接しています。(ちなみに、このブログはせいぜい1日のアクセス数が2000件位ですから、読者の皆様にはぜひ幸せな人生を歩んでいただきたいと願っております。何かの間違いで、このブログの読者が2000万人とかになってブルーカラーの方が多数読者になった瞬間にこのブログで「本当のこと」を言うのは絶対にやめますけど。ブルーカラーの方がこの社会の構造に気づいてしまうと都合が悪いからです。あ、そんなことは多分ないんで杞憂ですけどww)

 

ブルーカラーや有り体に言えば社会の最低辺のレイヤーの方が暴動を起こさない位にうまいこと彼らを手なづけて、そしてこの社会構造の真理について決して知られないようする。

 

これがゼロサムゲームの最上位に君臨するための不都合な真実でしょう。

 

なんかブルーカラーを非常に馬鹿にしたような論調で書いていますが、感情的にそういった方をばかにしてるつもりは本当にないのです。

 

ただただ事実を書いただけです。

 

本当に根源的な問題を言うのであれば、産業革命以降の人類の歴史や資本主義社会云々という話にまでさかのぼることになると思いますが、ここではそれらのトピックには触れません。

 

社会というのはなかなか複雑で不条理なものです。

 

あ、でも人工知能の実用化やロボット化によってこの社会のゼロサムゲームの根本的なゲームルールが変わっていく可能性もあります。

 

そうなった瞬間に『大貧民』の「革命」のように、我々ホワイトカラーの人間も一瞬にして没落することもあり得るわけです。

 

私も20年後にホームレスをやってるかもしれません。

 

強者」なんてゲームのルールによって違うわけですから、私だってホームレスになる可能性は十分ありますよ。

 

そういった危機感と謙虚さも常に持っていないと将来やばいと思いますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先進国の人間を皆幸せにするのは不可能

『社会はゼロサムゲーム』というポストの半分続きですが。

 

そちらの方でも述べたように、残念ながら、お金持ちやホワイトカラーの人間が幸福な人生を歩めるのは、配送員や飲食店の店員といったブルーカラーの人間が他に選択肢を奪われた状態で働かざるを得ないからです。(この因果関係に関してはそちらの投稿のほうに書いておきましたので、ご覧ください)

 

少なくても先進国においては、ある人間の幸福が生まれるのは、他人の不幸のおかげです。

 

なぜならば、少なくても先進国に住む我々から見ると、生存や生殖といった生物としての最低限のタスクは既に達成されており、「幸福の源泉」のほとんどは他者との相対評価における優位性にあるからです。

 

ビルゲイツザッカーバーグが有能だと評価されるのも

大谷翔平がすごいピッチャーだと評価されるのも

ポルシェが買えて嬉しいのも

一流企業に勤めて嬉しいのも

一流大学に合格して嬉しいのも

タワーマンションに住めて嬉しいのも

 

本人は意識すらしていないかもしれませんが、結局それらが世の中のほとんどの人にとって手に入らないからです。

 

有り体に言ってしまえば、他人の不幸によって優越感という幸福が生まれているわけです。

 

不都合な真実ですが、誰もがタワーマンションに住めてしまったらタワーマンションの優位性などどこにもありません。

 

誰もがポルシェやロレックス、バーキンやルブタンを100円ショップで買えるようになってしまったら、それらの相対的な優位性はどこにもありません。

 

医学部入試に、原付の運転免許のように通ってしまったら、そういった試験の相対的な優位性はどこにもありません。

 

先進国の人間の幸福は、かなりの程度が不幸な人間からの承認によって成り立っています。

 

これはあまりにも本当のことすぎて認めたくない人もいるかもしれません。

 

「いや、俺は人からの評価とか関係なくポルシェ(ロレックス、タワマンetc)が欲しいんだ」と言い張る人もいるかもしれませんが、これは本人も気づいていませんけど完全なる嘘です。

 

本人も気づいてない時点で嘘という表現は違うかもしれませんが、端的に誤謬です。

 

なんだかんだ言ってみんなが手に入らないものを自分だけ独占してるから楽しいわけです。

 

100円ショップで雑巾を買えるように、ポルシェなりロレックスなり医者や弁護士といったブランドが手に入ってしまったら、逆説的ですがそんなものには何の意味もないわけです。

 

婚活女子も医者や商社マンと結婚できて嬉しいのは、それが非常に自慢できるからです。

 

ほとんどの婚活女子が手に入れたいのに手に入れられないものを「自分だけ手に入れている」からこそ楽しいわけです。

 

不幸な人が指をくわえて羨望の眼差しで自分を見てくれるからこそ愉快なわけです。

 

これは感情的に認めたくない人もいるかもしれませんが、残念ながら、絶対に私が正しいと思っている不都合な真実です。

 

先進国の人間が、物質的な豊かさのわりに不幸な原因がお分かりでしょう。

 

生物としての生殖や生存という最低限のノルマを達成してしまった我々としては、残るは「相対評価による他者との差異化」だけです。

 

そして、他者との差異化による幸福はどこまでいっても相対評価である以上、皆が幸福になることは永遠にありません。

 

23世紀に今より生活水準やテクノロジーが飛躍的に進歩したところで、「他者から羨望の眼差しで見られたいスケベ心」は人間が人間である以上絶対になくなる事はありません。

 

それはちょうど平安時代や江戸時代よりも現代の日本の方が圧倒的に物質的に豊かなのにも関わらず、これだけ多くの人が不幸な現状を見れば明らかでしょう。

 

結局生物としての最低限のタスクを達成した後の承認による幸福というのは、どこまでいっても相対評価なのです。

 

私の祖父は当時としてはかなりお金持ちの家に生まれたらしいですが、大正時代にはテレビが祖父の家にしかなかったので、非常に気持ちが良かったみたいです。

 

みんなが「テレビを見せてくれ」と頭を下げて家に来るわけですが、これがなかなか気分が良いらしいのです。

 

それはそうでしょう。

 

当時ほとんどの人が持っていないものを自分だけ持ってるわけですから。

 

しかし、当時のテレビなんかよりも100倍性能が良いテレビをいまの配送員やフリーターも持っています。

 

それでも、おそらく大正時代の祖父よりも現代のテレビを持っている配送員の方が相対的な幸福度が圧倒的に低いのは想像に難くありません。

 

なぜならば、繰り返しますが、物質的な豊かさというのは所詮相対的なものだからです。

 

どれだけ人類全体が進歩したところで、幸福の蜜の味を味わえるのはほんの一握りの幸運な人間なだけで、社会のマジョリティーの人間はそういった人間を羨ましがるだけの存在である、という構造は平安時代も23世紀も変わらないでしょう。

 

幸か不幸か、われわれは生物として優秀すぎてしまったんでしょうか。

 

マズロー欲求段階説の三番目位のところでくすぶっていたら我々もここまで悩む必要などなかったのかもしれませんが、先進国に関して言えば、餓死する人間はほぼいないわけですから、どこまでいっても承認欲求や自己実現のレベルで悩むわけです。

 

飢饉や戦争中のように「生きるのに必死」ならば、みんなが協力してそれなりにみんな幸福なのかもしれませんが、我々は生物としての最低ノルマを達成してしまったが故に、「相対評価による他者からの承認」というスケベ心が生まれてしまったわけですから。

 

そして「他者からの承認」があまりにもおいしいからこそ麻薬のように止められないわけです。

 

私もここまで分析的に現代社会を理解しているつもりですが、やはり他人から評価される優越感はとてつもなく美味しいものです。

 

この気持ちよさは麻薬やかっぱえびせんのような中毒性があります。

 

そのように考えると、この社会構造において本当に人を幸せにするのは難儀ということがわかるでしょう。

 

ミクロに見たら仕事で人を幸せにしているように見えて、マクロに見たらその幸せは誰かの不幸によって成り立っているわけですから。

 

例えば、婚活業者がエリート男性と成婚した女性に感謝されて「いい仕事をしたな」といい気分になってるかもしれませんが、その幸福はそれが手に入らない不幸な人によって成り立っているわけです。

 

化粧品も予備校も目の前の人を幸せにしているように見えて、結局不幸な人がいるからこそ成功者が生まれているわけです。

 

私も予備校講師をやっているときに合格者が挨拶に来て非常にいい気分でしたけど、その合格者の背後に3人ほどの不幸な不合格者がいるからこそこの商売は成り立っているわけです。

 

みんな余裕で合格するほど簡単な試験ならそもそもこの商売なんて成り立ってないですから。

 

農業や漁業、エネルギー産業といった最低限のヒューマニズムを満たす仕事を超えたいわゆる第三次産業は、どこまでいっても「目の前の人を幸福にしている裏で不幸になっている人がいる」構造から100%逃れることはできないでしょう。

 

みもふたもない現代社会の分析をしたまでです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仕事や学歴、家を誰から評価されたいのか

※この投稿はめちゃくちゃ長いです。時間がある時にお読みください。

 

私の投稿をフォローしていただいてる奇特な方には釈迦に説法ですが、私は「俗世間でまずまず評価されたいなら、必要条件として肩書やブランドは不可欠」という立場です。(「必要条件として」というニュアンスで、「港区ママとはちょっと違う」とマウンティングしてるわけですけど)

 

そして肩書やブランドには「コスパ」や「対象」があります。

 

「誰から評価してされたいのか」を考えることが大切です。

 

元予備校講師として学歴ネタに触れておきますが、当たり前の話として、東大の理三が肩書として国内最強なのはもはや異論がないところですから、これは当たり前すぎていくら強調してもあまり論点として面白くありません。笑

 

「いけるんだったらがんばって東大に行ってください、まぁ理系や関西人なら京大も悪くはないよ。以上。」で話は終わってしまいます。笑

 

ここで論点として少し面白いのは、

一橋or東北大 vs 慶応

大阪大学医学部or東京医科歯科大医学部(以下医科歯科)vs 東京大学理科2類

 

といった「限界事例」です。

 

ここで私が論じたいのは、「誰から評価されたいのか?」というファクターです。

 

ここに具体例として挙げた論点は、元予備校講師として「相談に出てきた具体例」ですから、まさにリアルです。

 

例えば、一橋大と慶応だと「評価してくれる人」の層が全然異なります。

 

ちなみに、私が18歳で同じ学部で一橋大と慶應を選ぶ立場なら、慶応を選びます。

 

社会全体で考えたときに、圧倒的に慶応の方が知っている人が多いからです。

 

「レイヤーが高い人からしてみたら一橋の方が評価されるのでは?」という反論もあるかもしれませんが、学力ハイエストクラスからしてみたら、一橋もどのみち微妙なわけです。

 

悪く言ったらなぜ同じ東京にある東京大学を受験しないのか、という話になるわけで、地理的に離れている京大や北大などと違い「志望動機」がどこまでいっても消極的でしかないから。

 

ハイエストクラスから認められず、一般市民から認められないという極めて微妙な立ち位置が一橋大の真実でしょう。

 

「誰から評価されたいのか」という視点はここで大切になってきます。

 

ちなみに、一橋を評価する層というのは大体、中堅上位の進学校出身&私立文系型で早慶やマーチに進学したようなゾーンの方です。(進学校から東大受験に失敗して早稲田慶応に進学している人は、内心「一橋なんて逃げ」と思ってます)

 

上のターゲットに絞るのであれば慶応より一橋の方が良いでしょう。

 

端的に言って、コスパ的に一橋は最悪です。

 

難しい割にはどこのレイヤーからもあまり評価されないからです。

 

ハイエストオブハイエストからも、圧倒的大多数の普通の人や地方の人からもいまいち認知されていないからです。

 

慶応の勝ち、一橋の負け。

 

以上です。

 

次の論点として大阪大学医学部や医科歯科か東大理2か?

 

これは一橋と違って、完全にレイヤーによります。

 

(そもそも職業として医師になるかそうじゃないのかという論点があり、それが思いっきり重要なわけですがそれは一度(    )に入れて。)

 

ハイエストオブハイエストから評価されたいんであれば、もちろん医科歯科や大阪大学医学部です。

 

灘・東大寺・開成・筑駒あたりの生徒に「医科歯科や阪大医と理2、どっちがなんとなく上と感じる?」と聞いたら、95%が医科歯科や阪大医と答えるでしょう。(「なんとなく」がミソです。ものすごく厳密に考えていくとこの質問自体が無意味だからです。)

 

それぐらい最難関国立大医学部のブランド価値は一定のレイヤーにはバカウケです。

 

しかし、テレビ番組を見ればわかりますが、やはり一般市民の感覚で言うと東大ブランドは最強です。

 

阪大医学部や医科歯科なんて(地理的な問題もありますが)、まずテレビのキャッチコピーには使われません。笑

 

ですから、一般のマジョリティーの人から評価されたいのか、それを犠牲にしてもハイエストクラスから認められたいのかによってここの判断は分かれます。

 

仕事に関しても、似たようなことが言えます。

 

医師とゴールドマン・サックス

弁護士とマッキンゼー

 

この辺はレイヤーによって評価が違います。

 

医者の方がもしいらっしゃったら申し訳ないですけど、ある程度以上のレイヤーから見ると、医者というブランドはそこまでのものではありません。

 

もちろん医学者や医師の仕事は非常に尊いものでそれはそれで本当に尊敬に値しますが、くだらないブランド価値や肩書という視点で見たときに、「医者」というのは、正直そこまで恐れおののくほどのものではありません。

 

というのも、ある程度以上のレイヤーの人間から見ると、「まぁ、少なくとも私立の下の医学部には余裕で受かったしな(=医者にはなれたし)」という感覚がどうしてもあるからです。

 

肩書として医者に対する尊敬やコンプレックスなど、ハイエストクラスの学力の人で医学部を選ばなかった人から見ると全く皆無です。

 

少なくても下位私立大学出身の医者をブランド的な意味で尊敬する人は、学力ハイエストクラスにはあまりいないと思います

 

むしろ、ゴールドマン・サックスあたりの方が「レア感」はあるでしょう。

 

しかし、言うまでもありませんが、一般の感覚からすると、医者というのは「先生」であり、畏敬の念を抱くものです。

 

地方で開業医でもやっていれば、地元の名士でしょう。

 

「先生」ですから。

 

これも結局「誰から評価されたいのか」でしょうね。

 

東京の港区や渋谷区で「おお」と思われたいならゴールドマン・サックス、地方で先生と呼ばれたいなら医者でしょう。

 

弁護士とマッキンゼーあたりに関しては、これも医者とゴールドマン・サックスに近い関係かもしれません。

 

最近の若い女の子あたりからしてみたら、ゴールドマン・サックスマッキンゼーのほうが弁護士よりブランド価値を感じるかもしれません。

 

医者も弁護士も、所属している病院や事務所、出身大学によってかなりブランドにばらつきがありますから、「医師」vs「ゴールドマン・サックス」ではちょっと分が悪いですね。

 

「慶応病院勤務の慶応医学部卒の医者」なら圧倒的にこちらの方がブランド価値は上でしょうけど。

 

ただ、繰り返しますけど、それでも比較的社会的レイヤーが低い人や地方の人から見ると医者や弁護士っていうのは特別な職業ですからね。

 

医者や弁護士を「たいして稼いでなくない?」とシニカルに見るのは、都会のちょっと生意気な女の子とかです。笑

 

住所に関しても、どこから評価されたいのかによって微妙に判断が違います。

 

知的レベルが高い人から認められたかったら千代田区や世田谷区、文京区にしたほうがいいでしょう。

 

ちょっとくだらない俗的な人間に評価されたかったら港区の方が良いでしょう。

 

港区を東京で圧倒的にナンバーワンかのように吹聴している雑誌などがありますが、港区と渋谷区にダブルハウスで住む私から見ても、むしろ港区なんて「ある特定の人には」恥ずかしいですよ。笑

 

どう考えても地方出身者の成金が頑張って住んでる感じが否めないですからね。

 

むしろ千代田区や世田谷区、文京区の方が昔からの東京の品のある金持ちって感じがします。

 

私も六本木ヒルズに住もうかとちょっと考えましたけど、六本木ヒルズを評価するようなちょっと頭の弱い女の子には六本木ヒルズはいいですけど、ある程度教養レベルが高いまともな人間にはシニカルに見られるでしょうからやめておきました。

 

長々と具体例を書いてきましたが、本当にまとめてしまうとこのポストは2、3行で終わってしまいますね。笑

 

「誰から評価されたいのかを考えて肩書やブランドを手に入れるようにしたほうがいい。また、そのためのコストパフォーマンスも考えた方が良い。難しければいいってものでもない。そうしないと時間の無駄だから」

 

主張の骨子はこれだけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

社会はゼロサムゲーム

今日、ビルゲイツの慈善活動の動画を見ました。

 

たしかに活動自体は素晴らしいのですが、ひねくれ者の私はどうしても不思議な気分になります。

 

というのも、ビルゲイツの資産をアフリカの貧民に配れば問題は解決するのでしょうか?

 

たまに夢想するのですが、「もし全員がお金を持っている社会」なら人間や社会はどうなるでしょう?

 

ちょっと考えたらわかりますが、一瞬でインフレになりますし、社会はうまく回りません。

 

不都合な真実ですが、社会は「お金のために単純でつまらない仕事をやる人」が無数にいるから回っています。

 

丸の内や東京駅のオフィスで働いてるような人は、もはや同じ人間としてアテンションすらしていないかもしれませんが(ひどい言い方のようですが、トイレの清掃員に心から感謝してる人がどれだけいるでしょうか?)、トイレの清掃員、飲食店のホールの店員、タクシー運転手、マンションの警備員、キヨスクの店員、博物館や美術館の受付、スーパーのレジ打ちetc  といった「単純でつまらない仕事」をお金のためだけにやる人がたくさんいるからこそ、社会は回っています。

 

今後人工知能やロボットによって社会構造が変わるかもしれませんが、根本のところでこういった人たちがいること自体は変わらないでしょう。

 

別の投稿でも言いましたが、お金の本質なんて簡単です。

 

お金を介して「服従」を可能にするのがお金の機能です。

 

引っ越し業者や配送業者は社会に不可欠な仕事です。

 

アマゾンや楽天がここまでポピュラーになると、もはや配送抜きに社会など想起できないでしょう。

 

しかし、矛盾するようですが、月20万円の給料で、朝から晩まで頭を使わずにひたすらものを運ぶ仕事を「自分がやりたいか」と自問自答したら、きれいごと抜きに誰もやりたくないでしょう。

 

ここが社会のジレンマです。

 

ピーター・ティールも「ニューヨークのど真ん中でレストランを開くなんてビジネスとしておわっている」と言ってますが、でもやっぱりレストランがないと自分は困るわけですよ。

 

私も飲食店や農家を自分ではやりません。

 

しかし、やはり「誰かがやらないと回らない」わけです。

 

みんな餓死しますので。

 

そして、では「社会の損な役割を誰が担うか」と考えると、相対的に力がない人であり、現代でいえばお金がない人です。

 

小学校のサッカーでじゃんけんに負けたらゴールキーパーをやらされるように、社会のじゃんけんに負けた人が飲食店なり道路工事現場なり配送員として働くわけです。

 

不都合な真実ですが、飲食店の人も道路工事のおじさんも配送員も「やりたくてやってないけど、少ないお金のためにやっている」わけです。

 

彼らにもしお金を配って「選択肢」を与えたら誰もがブルーワーカーなんてやらないでしょう。

 

ある種奴隷のように選択肢がないからこそ彼らは賃金の安い肉体労働(ブルーワーク)に従事しますし、社会は回ります。

 

「もし飲食店や道路の工事現場で働いている人、ヤマトの配送員などにBI的に月に50万円与えたら?」と仮定しましょう。

 

そうなったら困るのは頭の良いホワイトカラーの人間です。

 

お金と頭という優位性があるから、自分自身は頭脳仕事をして飲食店でも4000円とかで食事ができたわけですが、農家の人間が月50万、飲食店の店員が50万etc とブルーワークのみなさんに正当な賃金を払っていったらそれをペイするために、4000円で済むはずのお会計は15000円くらいになるのですよ。

 

でも現実にそうならないのは、配送員や飲食店の店員が学もなく選択肢がないからです。

 

生活を人質のようにしているからこそ月に20万円で皆さんアリのように働くわけですよね。

 

そしてそれにより大多数のホワイトカラーの人間やお金持ちの人間は相対的に得をしてるわけです。

 

世界規模で言えば、なぜ明治製菓のチョコレートが100円で食べられるのかと言うと、結局ガーナやコートジボワールの子供を労働者として搾取しているからです。

 

フェアトレード」を本当に徹底したら(今のフェアトレード「ファッション」のようなものです)、チョコレートは1200円になりますし、バナナは1400円、マックのハンバーガーは1800円あたりになるでしょう。

 

世界規模で見たら、日本の優位性は発展途上国の貧民の搾取によって成り立っています。

 

つまり、お金をどう貧民に分配しても「不都合な真実」を一瞬隠せるだけで何も根本的な問題解決になりませんよ。

 

結局、世の中はゼロサムゲーム(勝つ人間と負ける人間の±が0になるということ)です。

 

他に選択肢がなく、能力がない人間が山のようにいるからこそ、飲食店の店員も配送員も今の給与スタンダードで済んでいるだけですから。

 

繰り返しますが、彼らに能力や選択肢があったら、彼らの給料は50万とか100万になり、そのツケをお金持ちやホワイトカラーの人間が払うことになり、お金持ちやホワイトカラーの相対的な優位性は消え失せます。

 

私の好きな受験ネタもそうです。

 

究極的には「受かる人間」の数はどうやっても一定ですから、私が日本一のカリデカ、いやカリスマ講師になって全ての受験生を教えても、受かる人間の数は変わりません。

 

全ての受験生の素点を10点づつ上げても「相対評価」ですから、受かる人数は不変です。

 

私が新卒で予備校講師にならなかった理由が3つほどありますが、その大きな理由はこれですね。

 

結局、受験って「教育」ではないのです。

 

小学生に算数を教えるのは「生きるため」です。

 

小学生に勉強を教えるのはまだやりがいを感じます。

 

しかし、正直高校生に偏差値63と61の「差」をつけるのは、「定員が決まっているからそれに合わせて無理やり線を引いているだけ」としか思えないのです。

 

相対評価である以上、全ての受験生を私が教えても合格者は増えないですから。

 

結局、受かる人と落ちる人の数はどうやっても一定ですから、これほど社会的に意味のない仕事もないと思ったわけです。(が、この年になって社会をシニカルに見ると、そもそも「社会貢献」なるものがまやかしにしか思えないのですが、、、)

 

話を戻しますが、結局社会は全てがゼロサムな訳です。

 

得をしている奴がいるから損する奴がいるわけです。

 

損している奴がいるから得する奴がいるわけです。

 

ビルゲイツがソフトウェアで億万長者になれたのは、ありていに言えば、他の人間が彼より無能だからです。

 

みんながビルゲイツ並の能力で簡単にソフトを作れたら彼は皮肉にも億万長者になれていませんし、慈善事業などできません。

 

ザッカーバークがFBで億万長者になれたのは、ありていに言えば、他の人間が彼より無能だからです。

 

大谷翔平選手が評価されるのは、他の選手が彼より無能だからです。

 

私が175kmの球を投げれて4割打てたら私の方が価値があります。

 

社会の評価は全て相対評価でありゼロサムです。

 

弱い立場の人を助けたい、という心意気は素晴らしいのですが、自分が相対的に優位な立場に居られるのは、皮肉なことに社会のほとんどの人が相対的に能力が低いおかげです。

 

私が投資で儲けられるのは、圧倒的に大多数の人間が私より数字や先を読む能力において劣っているからです。

 

能力的に並ばれてしまったら、私の相対的な優位性は手マンやクンニのテクニック以外に何もないです。

 

弱い立場の人を助けた結果、必ず自分の相対的優位性は消え失せます。

 

それでも、本当に顔が見えない他人を助けたいのでしょうか?

 

残念ながら私はそこまで顔の見えない他者に優しくはなれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

過剰に反応する時点で、、、

半分先ほどの続きです。

 

何かにたいして過剰に反応する人がいます。

 

結婚や子供ネタに過剰に反応する女性。

 

お金や地位ネタに過剰に反応する男性。

 

特に、特定の対象にたいして「そんなの関係ない」などと過剰に歯向かう方はネット上でも実世界でもいらっしゃいますが、反応している時点で「引くほど興味がある」という証左です。

 

フーコーという哲学者も似たようなことを言ってますが、そもそもトピックにしている時点で「興味ありまくり」なのです。

 

学習院大出身で「学歴関係ない」と吠える渡辺パコというもの書きがいますが、やはり頭脳労働としては超低学歴であるルサンチマンが炸裂しているわけです。

 

女性でも「結婚、出産ネタでマウンティングしてくる女まじうざい。そんなの人それぞれでよくない?」と発言する方が身近にいましたが、本当に「人それぞれ」でいいと思っていたらわざわざトピックにする必要すらないのです。

 

本当は「引くほど結婚したいし悔しい」というのが本音です。

 

過剰に反応している時点でもはや「負け」です。

 

「あの女は、旦那な地位を自分の地位だと勘違いしてマウンティングしてくる。車もタワマンも自分の実力じゃないくせに」と言ってる女性は本当は地位や所得が高い男性と結婚したかったのですよ。

 

本当に最初から配偶者の地位や所得に全く興味ない価値観ならわざわざ否定する必要すらないのです。

 

本当は引くほど興味があるのですよ。

 

渡辺パコもやはり「本当は早慶に行きたった。引くほど行きたかった。早稲田政経卒とか引くほど羨ましい」という悔しさと僻みがあるからこそ「学歴なんて関係ない」と言いたくて仕方ないわけです。

 

誰も「たこ焼きの焼き方のうまさが人の価値じゃねーし」、「垂直跳びの高さなんて関係ねーし」とは言わないでしょう。

 

温泉旅行中の卓球で負けても「ていうか、卓球のうまさが人の価値じゃねーし💢」とムキになる人はいないでしょう。

 

「鼻毛が短いからって調子にのるなよ。鼻毛が短いからって偉いわけじゃないんだよ💢」なんてムキになる必要はないでしょう。

 

それは本当に「どうでもいいこと」だからです。

 

本当に「関係ない」ことはみなさん「発言すらしない」のです。

 

裏から言えば、みんながムキになる「炎上するネタ」ほど「みんなが気にしている現代社会の人間の尊厳」を傷つけるネタということなのです。

 

お金

地位

住所

学歴

夫の所得や地位

子供の有無

女性の顔やスタイルや若さ

男性の身長

 

これが現代社会の力学の原理ということでしょう。

 

いろいろ言ってるようで、まとめると、結局お金と美しさですね。笑

 

男性はお金とそれに影響を与える学歴。

 

女性はその金持ちと結婚するための若さと顔とスタイル。

 

これが「否定できない社会の原理」でしょう。

 

「本当のこと」すぎてすみません。笑

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「自慢したいの?」と批判したい心理

人間はエゴと承認欲求の塊です。

 

とにかく自分が有利なポジションにいて甘い汁を吸いたい。

 

これはどれだけ美辞麗句を並べている国会議員も会社役員も同様です。

 

ですから、我々は常日頃自慢やマウンティング合戦をしています。

 

人間は非常に自己中なので、自分の自慢はするくせに、人の自慢は許せないものです。

 

「えみちゃん、昨日『寿司斎藤』に行ったよー」

「へえ、ゆきちゃんもついに行ったんだー」

 

こんな何気ないやりとりもマウンティング合戦です。

 

ゆきちゃんは『寿司斎藤』に行ったことを自慢していますが、それにかぶせるように、えみちゃんは「私はもうすでに行っているし、何自慢した気になっているの?」とマウンティングしています。

 

「ついに」の一言がものすごいマウンティングな訳です。

 

ところで、「何が自慢か」というのはなかなか相対的なもので、主観といえば主観です。

 

大人は基本的に露骨な自慢や蔑視というよりは「事実」を述べるだけです。

 

「昨日うちのマンションでホームパーティーをしていました❤️ 」

f:id:HK2125:20171119113106j:image

 

こんなFBの記事は「事実の報告」ですが、自慢の要素もあります。

 

あえて写真だけで「高層階って察して下さいな」といういやらしいマウンティングもあるわけです。

 

しかし、結局それをどう捉えるかは、自分の身分と心でしょう。

 

「港区のタワマンに住んでいます」

「馬と牛を持っています」

「慶応経済学部卒です」

「長島大野で弁護士やっています」

虎ノ門病院で医師をやっています」

「第一子が生まれました」

「結婚のご報告です」

 

というのは「事実」です。

 

孫正義は、タワマンなどうさぎ小屋だと思ってますし、国立からしたら慶応経済は低学歴で、自分に子供がいたら出産報告は素直にめでたいわけです。

 

自慢どころか、「はぁ、そうなんですね」としか思いません。

 

しかし、それを手に入れていなくて、かつ本心ではそれが欲しい人から見ると「自慢」になります。

 

年賀状に子供に写真を入れるかどうか、毎年話題になります。

 

不妊治療をしているとわかっているような人にあえてそれを送る必要はないでしょうが、「このコは独身だからやめておこう」などとイチイチ考えていたらキリがありません。

 

ですから、これは「受け手の解釈」というほかないでしょう。

 

「あの人は自慢が好きだ」などと言いたがる人は基本的に嫉妬深くて心が汚い人です。

 

本当は自分も同じ身分ならそういった自慢がしたいからこそ、屈折した感情として「あの人は」となるわけです。

 

本当に自慢やマウンティングに興味がない人なら、そうはなりません。

 

「あの人は」と思った瞬間、こう思いましょう。

 

「自分も本当は同じことをしたいけどできない身分だからひがんでいるんだな。情けない」と戒める必要があります。

 

ps  そして、これはなかなか口に出せない人間心理ですが(って書きますが)、私のように負けていたら嫉妬深い人間からすると、勝っている立場で嫉妬している人間が僻んでくるのはこの上なく痛快なのです。

 

気持ちいいこと極まりない。

 

皆さんも経験はあると思いますが。

 

30歳でなんとか結婚できた女性は、33歳未婚の負け犬が「結婚と出産だけが幸せじゃない」と吠えてくるのを見てこの上なく気持ちいいわけです。 それは「そっちの立場で僻んでいる自分」も想像できるからでしょう。

 

これは「誰もが否定できない人間心理の闇」ですね。笑

 

そもそもこのネタで書いていること自体が、自分が自慢好きで嫉妬深い心の持ち主である証左でしょうし。笑

 

「ああ、自分はひがむ立場にならんくて済んで良かった」という「セーフティーという名の愉悦」が快感なんでしょう。(©「セーフティーという名の愉悦」byカイジ

 

でも、私はせめて僻んでいる時に僻み発言を当事者にしないくらいの常識は持っているつもりです。

 

「こいつ性格わりーな」と感じるかもしれませんが、こういった心理は多かれすくなかれみんなが持っているものですし、そもそも私と似ている性格だからこ同族嫌悪で「性格わりー」と過剰に反応してしまうわけですよ。笑(痛いとこ突きますが)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜ男女はすれ違うのか

男と女は常にすれ違います。

 

「察してちょうだい」

「そんなの無理ゲーだ」

 

「そんなにずっとおしゃべりしていて楽しいのかね?」

「なんでそれがわからないの?」

etc

 

いろいろなすれ違いがありますが、男女の一番のすれ違いは、男はセックスを求め、女は愛情や心を求めるという悲しいすれ違いです。

 

生物レベルで考えたときに、男性がひたすら精子を出したく、女性が性に関して保守的なのは非常にリーズナブルです。

 

男性は理論上、生涯で1,000人でも2,000人でも子孫を残すことができます。(あー、ワシもやってみてー)

 

ですから、男性は基本的にどんどん種付けしたいようにプログラミングされています。

 

これが進化の過程で身に付いた自然な心の働きであり生理反応なんでしょう。

 

女性からしてみたら「なんで男はたいして好きじゃない女とセックスのために寝ることができるのか?」と疑問みたいですが、それに対して「男と女は脳の構造が違うんだよ」というありがちな回答があります。

 

しかし、さらにもう一歩踏み込むならば、「なぜ、男女はそれぞれの現状の脳に進化したのか?」と問うべきでしょう。

 

これは鶏が先か卵が先かという話で、かつ私が言うまでもなくこの手の分野の本物の専門家ではないので、私の分析はひょっとしたら間違ってるかもしれませんが、やはり精子を出す側と受胎する側で「合理的な行動」が違ってくるのでしょう。

 

上に述べましたが、男性は究極的には精子を出すだけで子孫は残せますから、ありていに言えば「とにかく入れたい、出したい」わけです。

 

自然の摂理から言えば一夫一妻の方が「不自然」な制度であり、本来男性はひたすら出したい生き物です。(が、だからといって遊び人の男性を肯定しようとしてるわけではありません。それはヒュームという哲学者の自然主義的誤謬」というやつです。ここでは本題ではないので興味がある方はGoogleへどうぞ)

 

自分が妊娠するリスクがなく精子を出すだけで子孫が残せるわけですから、そもそも男性は都合が良い性別なのかもしれません。(ワシは生殖用以外に、シコって出した精子の方が圧倒的に多いけど、って男はみんなそうか。笑)

 

それに対して女性は自分が妊娠するわけで、それに従い生涯で最大でも10個体ほどしか子孫が残せません。

 

(妊娠中は動きにくいですし、生物としてお腹に赤ちゃんがいるのはなかなか危険です。

 

本当にそもそも論として、なぜ哺乳類はこのようなめんどくさい方向性に進化したのか気になりますが、勉強不足なので今後のテーマとします。)

 

そうなると、必然的に男性より相手を選ぶ傾向が強くなりますし、そもそも男性よりも狙いを定めないと生存に不利な子孫を残すことになるので、女性はかなり保守的になります。

 

現代の先進国では男性でも女性でも事実上残せる子孫はせいぜい最大で4個体ぐらいですから、我々の日常感覚では男女に差はありませんが、やはり生物レベルで考えると全然違うわけですね。

 

男性は確率に任せて精子をばらまけばいいわけですが、女性はその戦法が取れないので圧倒的に慎重です。

 

これが男女のすれ違いの根源的な問題でしょう。

 

われわれは進化の過程で「高度な心」を持ってしまいました。

 

「かなしい」、「つらい」といった感情が他の動物にもないと思いませんが、人間は言語を持っているので、そういった感情を客観的に認識しやすい動物です。

 

だからこそ、ヤリ捨てされて「かなしい」、とかフラれて「かなしい」といった感情をより強く持ってしまうわけですね。

 

ヤリチン既婚者が「君は素敵だね、なんで奥さんより前に君と出会わなかったんだろう。もう妻とはセックスしてないしすぐに離婚して君と一緒になる」と言葉巧みにウソ八丁でやりまくるのは、ある意味生物としてはリーズナブルなわけですが、高度な認識能力や心を持ってしまったホモサピエンスのメスである女性からしてみるとこれはなかなか悲しいわけです。

 

「生物としての生」と「人間としての生」の齟齬が、男女がすれ違う主因でしょうし、もっと言えば我々現代人の生きにくさでしょう。

 

cf最後に補足ですが、女性は「気持ちが入らないとセックスができない」と言われていますが、生物レベルで考えると「好き」かどうかもつまるところ、「遺伝子レベルが優れているオスが好き」というみもふたもない話になってきます。悲しいかな、生物レベルで考えるとあらゆる事は生存と生殖のためだけに行われてますからね。